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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第96話 五柱の至高神、その一

 詠唱を唱える声が、掠れ始めていた。


 ノエルはそれに気づいていたが、途中で止める気はなかった。

 グランド・アリアの第三層を終えたところで、喉の奥に軽い痛みがある。

 けれども、痛みよりも彼女の心を大きく占めていたのは、まだ続けられるという確信だった。旅の間、何百回と詠唱を重ねてきた。喉が枯れることも、声が震えることもあった。それでも、精霊たちが応えてくれる限り、続けることをやめなかった。

 今日もそれと同じだと、ノエルは思っていた。


 目の前に、これまでとは比べものにならない大きさの気配が立ちはだかっていた。

 五柱の至高神。

 地域精霊とも、大精霊とも、中級神とも違う、世界の根源そのものに近い場所にいる存在たち。これまでの旅で出会ってきたどんな精霊とも、質が違う。もっと遠く、もっと大きく、それでいて、なぜか懐かしいような気配だった。


 ノエルは石畳に置いた両手に、もう一度力を込めた。指先が、わずかに冷たくなっている。それでも、震えてはいなかった。


「ガイアスよ、大地の根源に座す御方よ

 すべての大地を生み出し、その体を今も支え続けし御方よ

 この国の土が、瘴気に穢れ、生きる力を失いかけている


 あなたの御手で、この地を浄化してください

 汚れた土を、命育む土へと、還してください


 山々の根にも、平原の底にも

 あなたの息吹が、あまねく行き渡りますように

 傷ついた大地に、癒しの光を」


 声を発するたびに、体の奥から何かが引き出されていく感覚があった。

 これまでの詠唱とは違う。

 もっと深く、もっと根本的な場所から、力を汲み上げている感覚。

 ノエルは、その感覚を怖いとは思わなかった。

 ただ、大きい、存在の尊さをそう感じ取っていた。自分という器の限界を、初めて具体的に意識した瞬間だった。それでも、自身の器が壊れるという恐れは抱いていなかった。代わりに、存在の高い、大きいものに触れているという実感だけがあった。


 石畳の下から、地鳴りのような、しかしどこか穏やかな響きが伝わってきた。ガイアスが、応えようとしている。地の底の底、この国のどこよりも深い場所から、ゆっくりと、確かな意志を持った何かが動き出していた。


「セレスよ、水と実りを司る御方よ

 命を育む恵みを、この国のすべての土地に

 絶えることなく巡らせ続けてきた御方よ


 枯れた畑に、再び実りを

 病んだ作物に、再び命を

 あなたの慈悲を、この地に降らせてください


 土の下で眠る種にも

 枝の先で震える若葉にも

 あなたの恵みが、等しく届きますように」


 この節を唱えたとき、ノエルの脳裏に、あの初めての依頼を受けて臨んだときの光景が蘇った。夏の畑、黄ばんだ葉、薬師の涙。「本当に聖女様だ」という声。あの時の小さな祈りが、今、この大きな祈りと、どこかで繋がっている気がした。あの夏の日、テラに捧げた小さな詠唱と、今、セレスに捧げているこの大きな詠唱と、本質は何も変わっていないのだと、ノエルは思った。


     * * *


 アルドは、自身の魔力感知が、これまでにない規模の何かを捉え始めているのを感じていた。


 ガイアスとセレス。二柱の至高神の気配が、東端の石畳の周りに、確かに降りてきている。地域精霊や大精霊とは、質そのものが違う。もっと根源的で、もっと静かで、それでいて、もっと巨大だった。これまでの旅の中で、アルドは数え切れないほどの精霊の気配に触れてきた。だが、これほどの重みを持った気配は、初めてだった。存在の大きさというより、存在の「古さ」に近い感覚だった。


 アルドは筆談ノートを開こうとして、止めた。今は、何も書く時ではない。ただ、隣に立ち、ノエルの声を聞き続けることだけが、自分にできることだった。声を持たない自分にできることは、限られている。だが、その限られたことの中に、確かな意味があると、アルドは今、改めて感じていた。


 広場の中央から、規定の詠唱を唱えていた詠唱士たちのざわめきが、これまでとは違う形で伝わってきた。何かが起きている、と誰もが感じ始めている。

 だが、その正体を理解できている者は、まだ少なかった。

 広場の中央で規定通りの詠唱を続けているマルクも、東端の方角を何度も見ながら、自分の詠唱に迷いを滲ませているのが、遠目にも分かった。


 フォルクが、東端の方角を、じっと見つめていた。

 その表情に、これまで見たことのない緊張があった。

 三十年前から抱えてきた問いの答えが、今、目の前で形を取ろうとしている。フォルクにとって、この光景がどれほどの意味を持つのか、アルドには想像することしかできなかった。あの研究室で「例外で終わらせたくない」と言っていたフォルクの声が、アルドの耳の奥に蘇った。


 ヴィナスも、書類を手にしたまま、動きを止めていた。

 彼女の視線は、広場の東端に向けられたまま、微動だにしなかった。

 十五年間、算定部門で数字と向き合い続けてきた人物が、今、数字では捉えきれない何かを、目の当たりにしている。その表情の奥に、これまでのどの面談でも見せたことのない、静かな驚愕があった。


 アルドは、ノエルの背中を見つめ続けた。

 喉の掠れ、額の汗、それでも揺るがない声——そのすべてを、記憶に刻みつけるように。声を出せない自分にできることは、こうして見つめ続けることだけだった。


 それでも、その見つめ続けるという行為に、確かな重みがあると、アルドは今、信じていた。


     * * *


 レイは、王都の上空、誰の目にも映らない場所から、その光景を見ていた。


 (来たか)


 五柱の至高神が、地上の一人の少女の声に応えて、姿を見せ始めている。

 三百年ぶりの光景だった。

 レイ自身、これほどの規模の詠唱を目にするのは、久しぶりのことだった。

 あの子が学院に入る前、まだ小さな村で精霊たちに愛されているだけの少女だった頃から、レイはずっと見てきたのだ。

 それが今、この規模の祈りを紡ぐまでになっている。


 (アルドには、まだ言っていないことがある)


 忘却の雫、レテ・ドロップ。

 あの薬は、テノアを一時的に相殺するものだが、その効果には限界がある。

 今日のこの規模の詠唱が、どこまでアルドの体に負荷をかけるのか、レイ自身、正確には読み切れていなかった。


 あの研究室で「大事な時のために覚えておけ」と告げたあの日から、この瞬間のことを、レイはずっと考えてきた。だが、考え抜いた末にも、確かな答えは出ていなかった。


 (あの子の声が、届くところまで届いたら——その時、判断する)


 レイは、静かに、地上の光景を見守り続けた。

 ノエルの声が、ガイアスとセレスに届いている。

 次は、ルミナス、ノクス、イグニス。三柱が、まだ残っている。


 王都の空の下、無数の人々が、それぞれの祈りと不安を抱えて集まっている。レイの目には、その一人一人の顔が、はっきりと見えていた。老いた者、若い者、子供を抱いた母親。誰もが、この儀式の結末を、固唾を呑んで待っていた。


 (この子が背負っているものの重さを、この場にいる誰も、まだ正確には分かっていない)


 レイはそう思いながら、視線をノエルへと戻した。

 彼女の隣に立つアルドの姿も、見えていた。

 声を持たない男が、ただ黙って隣に立ち続けている。

 その姿もまた、レイにとっては見慣れたものだった。

 三年以上、あの男はずっとこうして、誰かの隣に立ち続けてきた。

 教授としての声を失い、テノアという重荷を背負いながら、それでも腐ることなく、誰かの隣に在り続けることを選んできた男だった。


 (あの二人は、似ている。声を失った男と、声を持ちすぎるほど持っている少女。だが、二人とも、同じように「隣にいる」ことを選んできた)


 王都の空の下で、レイはその二人を、ずっと見守り続けていた。


 (もう少しだ。もう少しで、五柱が揃う・・・・・・)


 レイの気配は、誰にも気づかれることなく、王都の空に溶けていた。


     * * *

 

 第四層に詠唱が移り、はじめの二節を終えたノエルは、一度、息を大きく吸った。

 喉の痛みが、少し強くなっていた。

 けれど、まだ止まれない。ここで止まってしまえば、ガイアスとセレスの応えを、無駄にしてしまうことになる。それだけは、絶対にしたくなかった。


「聞こえていますか」


 声の型を、一度緩めた。


「ガイアス様、セレス様。あなたたちが応えてくださった反応が、直に伝わってきています」


 地面の奥から伝わってくる、大きく、静かな肯定の感覚。

 ノエルはそれを全身で受け止めながら、小さく笑った。土の匂いと、遠くから漂ってくる水の気配が、混じり合って伝わってくる。

 それは、これまで旅の中で出会ってきた、無数の小さな精霊たちの気配と、どこか似ていた。大きさは全く違う。だが、根本にあるものは同じだと、ノエルは感じていた。


「ありがとうございます。まだ、続けます」


 残る三柱——ルミナス、ノクス、イグニス。それぞれが司る、光と闇と火の力。ノエルは、次の詩を紡ぐための呼吸を、静かに整えた。今、自分がどれほどの規模の祈りを紡ごうとしているのか、頭では理解しきれていない部分もあった。だが、恐れはなかった。ただ、目の前にいる——見えないけれど確かにそこにいる——存在たちに、届けるべき言葉があるという確信だけがあった。


 石畳に触れる指先が、かすかに震えていた。だが、それは恐れの震えではなかった。これまでの旅の記憶が、指先を通して、地面へと流れ込んでいくような、そんな感覚だった。畑の依頼で出会った薬師の涙、井戸の村の老婦人の笑顔、水路で助けた住民たちの歓声——その一つ一つが、今、この大きな祈りの中に溶け込んでいた。


 ノエルは前を見据えたまま、次の言葉を紡ぐ準備を始めた。ルミナス。ノクス。イグニス。あと三柱。声は掠れ、体は重くなり始めている。それでも、ここでやめるという選択肢は、ノエルの中には一片も存在していなかった。


     * * *


「五柱のうち、二柱が応えた。

 残る三柱への声を、彼女はまだ、持っていた」

―― アルド、東端の配置にて

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