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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第94話 大精霊への呼びかけ

 第一層の詠唱を終えたノエルの周りに、薄い気配の層がたゆたっていた。


 土の精霊、水の精霊、風の精霊——それぞれが、まだ完全に応えたわけではない。

 だが、最初の扉は開いた。

 

 アルドは魔力感知の中で、その三つの異なる種類の気配が、ノエルの声を中心にして、少しずつ近づこうとしているのを感じ取っていた。


 広場の中央では、規定の詠唱士たちの声が、相変わらず途切れることなく続いている。だが、その音の質感と、東端から漂う何かの気配は、明らかに別の層を成していた。


 ノエルは石畳に置いた両手を、ほんのわずかに浮かせた。

 次の呼びかけは、もっと遠く、もっと深い場所へ届けなければならない。

 汗が額に滲み始めていたが、彼女の集中は乱れていなかった。


     * * *


「大いなる御方、大精霊テラよ

 地の底に座し、すべての土を統べ、地脈の流れを司りし御方よ

 あなたの御子たる土の精霊が、今、苦しんでいます


 地脈に走る歪みを、あなたは誰よりも深く感じているはずです

 その重みを、一柱で支え続けてきたあなたに

 今、我が声を届けん」


 声が、これまでとは違う響きを帯び始めた。

 広場の喧騒の中でも、その声には不思議な通りの良さがあった。


 アルドの魔力感知に、これまでよりも遥かに大きな存在の気配が触れた。

 深く、重く、しかしどこか優しい質感を持った気配だった。


「大いなる御方、大精霊ルナよ

 泉の源に宿り、すべての水を統べ、命の潤いを司りし御方よ

 あなたの御子たる水の精霊が、今、汚れに苦しんでいる


 あなたの清らかな流れに、病が紛れ込んでいる

 それでもなお、命を巡らせ続けてきたあなたに

 今、我が声を届けん」


 第Ⅶ節が終わると、東端の石畳の周りに、わずかに湿った気配が漂い始めた。

 目に見える変化ではない。

 けれど、空気の質が、確かに変わっていた。

 誰かが小さく息を呑む音が、近くから聞こえた。


「大いなる御方、大精霊シルよ

 大空の高みに在り、すべての風を統べ、大気の循環を司りし御方よ

 あなたの御子たる風の精霊が、今、瘴気に汚れ苦しんでいる


 あなたが運ぶはずだった清らかな流れが、今は穢れを帯びている

 それでもなお、吹き続けてきたあなたに

 今、我が声を届けん」


 第Ⅷ節が終わると、広場の空気が、わずかにざわついた。

 中央の規定詠唱士たちの何人かが、東端の方角を振り返った。

 風向きとその強さが変わったのを、彼らも感じ取ったのかもしれない。


 ノエルは、声の型を一度緩めた。


「……聞こえますか。地の底で、泉の源で、大空の高みで」


 沈黙が、長く続いた。

 広場の喧騒も、規定の詠唱士たちの声も、その瞬間だけ遠く感じられた。


 アルドは息を詰めていた。第一層の地域精霊たちとは違う、もっと大きく、もっと遠い存在からの応答を待つ時間だった。

 これまでの旅でも、これほど大きな存在からの応答を待ったことはなかった。


 やがて、大地が、これまでとは違う深さで揺れた。


 地震に似た揺れだったが、質が違った。

 怯えではなく、応答のための揺れ。

 アルドの魔力感知に、三つの巨大な気配が、はっきりと触れた。


「……聞こえています」


 ノエルが、目を細めながら言った。


「テラ様は、地脈の重さに、ずっと耐えてくれました。ルナ様は、汚れた水を薄めようと、流れを巡らせ続けてきたそうです。シル様は、瘴気混じりの空気を吹き飛ばそうと、風を吹かせ続けてくれました」


 声が、わずかに震えた。怖さではなく、感動に近い震えだった。


「三柱とも、もう、限界に近いみたいです」


 その言葉に、アルドの胸が締めつけられた。

 地域精霊たちだけでなく、その上に立つ大精霊たちまでもが、すでに限界の淵にいる。

 三百年前の災害の規模が、初めて、その実感を伴って迫ってきた。

 フォルクが語っていた「大地の慟哭」が、ただの歴史上の記録ではなく、今、現実として目の前で再現されようとしているのだということを、アルドは肌で感じた。


 ノエルは深く息を吸い、もう一度詩の調べへと戻った。


「テラよ、ルナよ、シルよ

 あなたたちの限界を、今、我は知ることとなりました

 それでも支え続けてきたその慈愛と想いの強さに、敬意を捧げましょう


 もう少しだけ、踏みとどまってくださいますか

 我は、さらに上位の御方へと、声を届けに参ります

 決して、あなたたちを、見捨てはしない」


 そして、橋渡しの一節。


「知恵を司る御方よ、風を遠くまで運ぶ御方よ

 雷を宿す御方よ、調べを紡ぐ御方よ

 あなたたちの力を、今、借りに参る


 我が声が、ここからさらに遠くへ届くように

 我が祈りが、形を成すように

 どうか、力を貸したまえ」


 第Ⅹ節目の詠唱を唱え終わる。


 ノエルの額に、薄く汗が浮かんでいた。

 第一層よりも、この第二層に移ってから、明らかに負荷が増している。

 けれども、その目には、まだ確かな自信の光が灯っていた。


 広場の中央で、マルクが詠唱を続けながらも、何度もノエルたちがいるはずの広場の東の端を見ていた。彼の規定どおりの詠唱に、これまでにない種類の何かが混ざり始めているのを、アルドは遠目に感じ取っていた。


 マルク自身の任意節が、ノエルの声に呼応するように、少しずつ強くなっている。

 彼の声に、ほんの少しずつ、ノエルと同じ種類の真剣さが宿り始めていた。


 古代詠唱式のグランド・アリア、その第二層、詠唱完了。


 ノエルは石畳に膝をついたまま、次の呼吸を整えていた。

 額の汗を拭うこともせず、ただ前を見据えている。

 

 続く第三層は、これまでとはまた違う、人間の祈りを神の力へと変換する層だと、誰に教わったわけでもないのに、彼女はすでに感じ取っているようだった。


     * * *


 ちょうどそのころ、中央広場の南の端。


 学院がこの儀式詠唱を観測するために用意した席に、緋色の長髪をなびかせて、ひとりの貴族令嬢が立っていた。

 羽織っているローブは、詠唱士の白基調の衣ではなく、紫色ローブに銀刺繍が施された「上級魔術師」の衣をまとっている。


 彼女の名は、クラリッサ・フォン・ヴァルト。

 緋色の髪が特徴の、ヴァルト伯爵家の長女である。


 学院長派の若手の中では、かなりの使い手として評判だったが、今日この場では、その力の片鱗はなく、地味な儀式詠唱の観測とその記録、規定どおりの安定した詠唱が行われているか、また魔術発動による精霊の反応を感知する任にあたり、遣わされていた。


 本人としては非常に納得の行かない配置であった。

 彼女はそれでも、職務に忠実に詠唱の記録を続けていた。

 

 ふと、東の端にいた予備配置の詠唱士の群の中に、ひと際異彩を放つ気配を感じて、そちらに視線を向けた。その瞳に感情の揺らぎは見えず、ただ冷静な観測者の佇まいだった。


「……先ほどと、空気の層が変わった?」


 誰に向けたわけでもない、ささやき声の独白。

 クラリッサには精霊の声が聞こえない。

 でも、空気がはらむ湿度の揺らぎ、風向きの変化、石畳の地面のわずかな震え——それらの事象は、今までの規定に沿った儀式詠唱の反応の中では、説明のつかない”異常値”と捉えられた。


 クラリッサは、手元の記録板に、静かに感知した数値を記録していく。


「あのブライトガーデンと言ったか、彼女が詠唱を初めて以降、第Ⅶ節のあと、周囲の反応が——数値が大きくブレて規定の範囲を超えている……これは誤差といえる範囲はとうに過ぎてしまいました。修正ができるものではありませんね」


 記録版に休まず値を書き込みながら、淡々と告げる言葉は淀みなく続いた。

 そのとき、ノエルの詠唱の言の葉が、ほかの喧騒の中からひと際目立って、聞こえてきた。

 まるで、風の精霊が声を遠くへ伝わるようしているかのように。


「……あの詠唱は、規定には収まるはずもない」


 今まで規定ルールの枠の中で、規定に沿った詠唱が一番良いと信じていた自分。

 その積み重なった経験が、土台から少しずつ、何かが変わろうとしていた。

 それは、クラリッサの正直な感想であった。

 

 そのとき、一瞬だったが自分のそばを神霊の気配が通り過ぎた。

 いつもなら、ここまで明確な存在感を得ることはない。


 レイがふわりと羽ばたいて、ノエルのいる広場の東の端へ飛び去るところだった。

 クラリッサの脇を通り抜けるとき、レイは背中に何かを感じ、わずかに首をすくめた。

 

「……なんか妙な気配が——」


 小さくつぶやいた神霊の言葉は、クラリッサにはもう届かなかった。

 彼女はただ、冷静に職務に臨み、値を記録板に刻み続けていた。


     * * * 


「大精霊たちが、限界に近いと言った。

 彼女の声は、そこまで届く声だった」

―― アルド、広場の東端の配置にて

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