第8話 はじめての宿帳
旅の一日目は、
思っていたより静かで、
思っていたより温かくて、
そして思っていたより、少しだけ心細い。
けれど、煮込みの匂いがして、
灯りがあって、
名前を書いて、
「おはようございます」を詠唱してみて、
それだけで、旅はもう始まっていた。
#POETRY WITCH-言の葉の代償は琴音で払え-
##第1部 言の葉の重み
###第8話 はじめての宿帳
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学院の門を出て、最初の夜が来た。
街道沿いの宿——
フォルクからもらった紹介状の宿ではなく、
日が暮れるより少し前に偶然見つけた、
街道脇の小さな宿だった。
看板に「旅人歓迎」と書いてある。
窓から煮込み料理のよい匂いがしていた。
「入りましょう、師匠! お腹すきました!」
アルドはノートを取り出した。
『同意します』
「レイさんは?」
「ボクは空腹を感じない」レイが言った。
「しかし、あの煮込みの匂いは悪くない。
精霊的な観点から、素材の質を鑑定してやろう」
『鑑定は不要ですが、いいでしょう。食べましょう』
* * *
宿の帳場に、人の好さそうな老主人がいた。
アルドがノートに書いて差し出した。
『二名、一泊お願いします。窓の開く部屋を』
老主人が読んで、顔を上げた。
「お連れ様は……」
アルドが窓枠を指差した。
レイが「ボクだ」と言った。
老主人は目を丸くした。
しかしハルベルトの女将より順応が早く、
三秒で「……かしこまりました」と言った。
宿帳を差し出してきた。
ノエルが羽ペンを取り、名前を書いた。
「ノエル・ブライトガーデン」
名前を書いて、アルドに渡した。
アルドも続く。
老主人が宿帳を受け取り、二人分の名前を確認して——ふと動きが止まる。
「……アルド先生?」
アルドが顔を上げた。
「あの、王立魔術学院の、アルド先生では……?」
ノエルが「えっ」と言った。
「十五年ほど前、私の孫娘が学院でお世話になりまして。神霊文学の授業が面白かったと、ずいぶん楽し気に話していたんです。あの、お声が……その、ご病気でしたか」
アルドはノートに書いた。
『研究上の事情です。ご心配なく。お嬢さんはお元気ですか』
「ええ、今は東の街で詠唱士をやっております。腕前は、まあ……先生には及びませんが」
老主人が照れたように笑った。
「先生が来てくださるなら、うちの食事でよければ。ゆっくりしていってください」
* * *
夕食は、入り口で良い匂いのしていた、あの煮込み料理だった。
野菜と豆と、少しの肉。
素朴だったが、温かかった。
ノエルが三杯おかわりした。
アルドが二杯おかわりした。
レイが窓枠から「素材に水霊の加護がある。この土地の水がいい」と言った。
老主人が「水霊の加護……!」と目を輝かせた。
食後、テーブルでノエルがノートを広げた。
今日の振り返りを書いている——旅を始めてから、毎晩やると決めたらしい。
「師匠、今日の移動距離ってどのくらいですか」
アルドが地図を取り出した。
指で示した。
「……意外と歩きましたね」
『だいぶ歩きましたが、足の調子は大丈夫ですか』
「大丈夫です! むしろ気持ちよかったです」
ノエルがノートに書き込んだ。
アルドはそれを横目に見た。
「一日目。よく歩いた。宿の煮込みがおいしかった。
ご主人がアルド先生の教え子のお祖父さんだった。
師匠はいろんなところに縁があるんだなと思った。
今日は噛まなかった(依頼じゃないから当然だけど)。
明日もがんばる」
アルドは読んで、ノートを返した。
『「依頼じゃないから当然」は余計ですよ』
「えっ、なんでですか」
『日常の練習でも、きちんとできますよ』
「……それはそうですけど」
『明日、朝の挨拶を詠唱形式でやってみてください』
「朝の挨拶を詠唱形式で......?」
『「おはようございます」を第一節とした五節構成で』
ノエルがしばらく考えた。
「......できるかなぁ」
「できるというか――」レイが口を挟んだ。
「少なくとも第Ⅲ節あたりで感情が溢れて、脱線する可能性が七割だな」
『レイの予測は参考までに留めてください』
「やってみます!」
ノエルが宣言した。
レイが「七割だな」と繰り返した。
* * *
夜、部屋に戻ってからノエルはしばらく眠れなかった。
天井を見上げて、目を開けたまま、
学院の自分の部屋を思い出した。
いつも同じ場所にあった机と、窓と、棚。
今夜の天井は、少し低い。
怖い、とは違った。
落ち着かない、とも少し違う。
新しくて、少しそわそわした。でも、それは嫌な感じじゃなかった。
ノエルは革張りのノートを胸の上に乗せた。
「ノエル・ブライトガーデン」
小さな声で、呟いてみた。
暗い部屋の中、誰も聞いていない。
神霊の視線もない。
期待の重さもない。
ただ、静かに、自分の名前が空気に溶けた。
噛まなかった。
ノエルはしばらくその感覚を確かめた。
それから、ノートを開いた。
暗くて書けないので、また閉じた。
でも、書きたいことは決まった——明日の朝、書こうと思った。
窓の外で、レイの尾羽が月光に揺れていた。
「眠れないのかい?」
低い声が聞こえた。
「……レイさん、起きてたんですか?」
「高位精霊であるボクは眠らないのさ」
「そうでした」
しばらく、沈黙があった。
「レイさん」
「なんだい」
「旅って、楽しいですか」
レイは少し間を置いた。
「ボクに聞くかい、それを。まあ、旅の匂いを一番知ってるのは、精霊だからね」
「うん。レイさんが一番、旅慣れしてそうだったので」
「……そうだな」
レイの尾羽が、ゆっくりと揺れた。
「楽しい、というより——面白いぞ。
同じ道は、二度とない。同じ宿も、同じ水の味も、二度とない。それが旅だ」
「面白い、か」
「お前はどうだい?」
ノエルは少し考えた。
「……まだわかりません。でも、今日の煮込みはおいしかったです」
「それで十分だ」
レイが言った。
「旅の一日目に必要なのは、それだけだよ。
おいしいものを食べて、眠れる場所があって、明日また歩ける足がある」
ノエルはその言葉を聞いた。
なんだか笑いたくなった。
「......レイさんって、たまに優しいですよね」
「たまに、は余計だ」
「いつも優しい、ですか?」
「いいから……もう眠れ。明日もあるんだぞ」
ノエルが笑った。声をひそめて、でも確かに笑った。
「おやすみなさい、レイさん」
「……ああ、ゆっくりおやすみ」
* * *
翌朝。
ノエルが起きてきた時、アルドはすでに窓際で茶を淹れていた。
「師匠、おはようございます!」
アルドが振り返って頷いた。
「あの——昨日言ってた、朝の挨拶を詠唱形式で、やってみてもいいですか」
アルドがノートを開いた。
『どうぞ』
ノエルが背筋を伸ばした。
革張りのノートを胸に抱えた。
小さく深呼吸した。
「——師匠、おはようございます。
今朝の光は昨日より柔らかく、
窓の外の草は夜露をまとい、
旅の二日目がはじまろうとしています——」
アルドは手を止めた。
そして、ノエルの声の“立ち上がり”を聞いた。
その言の葉の調べは、確かに第Ⅰ節の導入だった——美しい導入だった。
「——どうかこの朝が、師匠にとっても、
レイさんにとっても、
そして私にとっても——」
レイが窓枠から首を伸ばした。
「——良き詠唱の一日でありますように。
ノエル・ブライトガーデン、ここに誓います!」
沈黙があった。
レイが言った。「おや……噛まなかったな」
アルドがノートに書いた。
『五節ではなく一節でしたが』
「ごめんなさい、途中で足りなくなって」
『足りなくなった分が、そのまま詩になっていました。それから——』
アルドが、もう一行書いた。
『おはようございます、ノエル』
ノエルが、ぱっと顔を輝かせた。
「師匠! 朝の挨拶、初めてしてくれましたね!!」
『していました。今までも』
「してなかったです絶対!!」
『……これからは、しますよ。これから毎日ね』
ノエルが嬉しそうに笑っていた。
レイが窓枠で尾羽を揺らした。
「若造、これを三年前にやっていれば、今ごろ残高が違ったかもしれないね」
『テノアの残高と朝の挨拶は無関係ですよ』
「そうかな」
ノエルが笑いながら、朝の支度を始めた。
旅の二日目が、始まった。
* * *
「旅とは何か、と聞かれれば——
おいしいものを食べて、眠れる場所があって、
明日また歩ける足があること、とレイは言った。
そこに、ノエルの詠唱が加わる。
それ以上は、何もいらない」
―― アルド、筆談ノートより
旅の一日目は、
ただの一日ではなくて、
これから続いていく日々の、
最初の灯りみたいなものだ。
煮込みの味も、
宿の天井の低さも、
レイの尾羽の揺れも、
ノエルが自分の名前をそっと呟いたことも、
全部、旅の始まりの証だった。
明日も歩ける足があって、
書きたいことがあって、
誰かに「おはよう」と言えるなら、
旅は続いていく。




