第7話 出発の朝、学院の門
言葉にならないものがあります。
でも、言葉にならないまま、確かに続いていく関係もあります。
静かな図書室と、声を失っていく研究者。
これは、「そこにいる」ことを選び続けた人たちの話です。
声が出なくなってから、三ヶ月が経った。
学院の生活は、思ったより変わらなかった。
板書で講義を続けた。
学生たちは慣れた。
質問は紙に書いて持ってくるようになった。
最前列の学生が、いつの間にか「先生、黒板の右端が見えません」と
席を移動する時に声をかけてくれるようになった。
言葉がなくても、伝わるものは伝わった。
ノエルは毎日、練習室に来た。
第Ⅶ節の成功率は、じわじわと上がっていた。
五十回に三回だった噛みが、百回に四回になり、
二百回に三回になった。
完璧ではない。でも、確実に近づいていた。
リトシステムのテノア残高は、遅延転送の影響で、静かに積み上がっていた。
* * *
転機は、学期末の教授会だった。
議題の一つに、ノエルの処遇が上がった。
「ブライトガーデン学生の休学期間が、規定の上限に近づいています」
学院長が書類を見ながら言った。
「このまま復学しないのであれば、除籍の手続きを——」
「待ってください」
アルドの代わりに、フォルクが割り込む。
それに呼応して、アルドが手を挙げた。
全員が振り返った。
声がないのを思い出した教授たちが、視線を交わした。
アルドはノートを取り出した。
書いて、隣のフォルクに見せ、彼が読み上げた。
「『ブライトガーデン学生は、現在私の指導のもとで実地研修中です。
休学ではなく、課外実習の扱いとしていただけますか』」
学院長が眉を上げた。
「アルド教授、それは……正式な申請がなされていませんが」
アルドは次のページに書いた。
フォルクが、それを読み上げた。
「『本日付で申請します。遡及適用をお願いします』」
ざわめきが起きた。
フォルクが、窓際で静かに外を見ていた。
学院長はしばらく書類を見た。
それから、ため息をついた。
「……アルド教授。
貴方の研究実績と在籍年数を鑑み、今回は特例として認めます。
ただし——」
学院長が、アルドをまっすぐ見た。
「その学生の実地研修の成果を、学期に一度、報告書として提出すること。
それが条件です」
アルドは頷いた。
ノートに書いた。
「『承知しました。必ず提出します』」
教授会は、そのまま次の議題に移った。
* * *
教授会が終わった廊下で、フォルクがアルドに並んだ。
「うまいことやりましたね」
アルドはノートを取り出した。
『おかげで除籍は免れました』
「報告書、ちゃんと書けますか。
実地研修の成果——
水害治癒、依頼完遂、神霊との接触事例……
書けることは、たくさんありそうですが」
『書けます。むしろ書きたいことが多すぎて困るくらいです』
フォルクが小さく笑った。
「……いつ出発するつもりですか」
アルドは少し止まった。
それから書いた。
『来週、と思っています。ノエルの第Ⅶ節の成功率が、安定してきたので』
「戻って……いつか学院に戻ってきますよね?」
『籍は残します。ノエルの休学届も、継続で』
「そういう意味じゃなく」
フォルクは、アルドを見た。
「貴方が、戻ってくるかどうかを聞いています」
長い沈黙があった。
アルドは窓の外を見た。
中庭の木が、秋の風に揺れていた。
『……わかりません。ただ、行かなければならないことは、わかっています』
フォルクはそれを聞いて、少し間を置いた。
「……わかりました。報告書の提出先は、私宛でいいです。学院長には私から回します」
『助かります』
「それから——」
フォルクがポケットから小さな紙片を取り出した。
アルドに渡した。
「北の街道沿いに、私の古い知り合いが宿をやっています。
旅の途中で困ったら、その名前を出してください」
アルドはその紙片を見た。
丁寧に折って、ノートの間に挟んだ。
『ありがとうございます』
「達者でいてください」
フォルクは、それだけ言って歩いていった。
その後ろ姿に、アルドは深く一礼で応えた。
* * *
出発の朝は、快晴だった。
学院の正門前に、二つの荷物と一羽の鳥がいた。
ノエルの荷物は大きかった。
革張りのノートに、着替えに、練習用の呪符の束に、
「お守りです」と言いながら詰め込んだ干し果物の袋が三つ。
アルドの荷物は小さかった。
着替えと、ノートと、ペンと、インク。
それだけだった。
レイが荷物の山の頂上に止まって、尾羽を揺らしていた。
「出発が遅い。神界の気流は夜明けに一番澄むんだよ、若造。そのタイミングで動くのが一番いいのさ」
アルドはノートに書いた。
『出発は朝と決めていました。夜明けは朝です』
「屁理屈だ」
「師匠、準備できました!」
ノエルが振り返った。
学院の制服ではなく、旅装だった。
動きやすい上着に、丈夫そうなブーツ。
革張りのノートだけは、いつも通り胸に抱えていた。
アルドは門を振り返った。
石造りの古い門。
王立魔術学院の紋章が刻まれた門柱。
三年前、自分がここをくぐって教授として赴任した日を思い出した。
そのさらに以前——学生として、初めてここに立った日も。
ノエルが隣に来た。
「……緊張しますね」
アルドは頷いた。
「でも、楽しみです」
アルドはノエルを見た。
それから、ノートを開いた。
『私もです』
ノエルが笑った。
「師匠が『楽しみ』って書いたの、初めて見ました」
『そうでしたか』
「はい。いつも『問題ありません』か『大丈夫です』か『完済予定日が延びただけです』か——」
『十分な語彙だと思っています』
「師匠ーっ!」
レイが肩から飛び立った。
「行くよ、二人とも。神界の気流が、今日は南向きに吹いている。いい兆しだ」
アルドは門を背に、歩き出した。
ノエルがその隣に並んだ。
朝の光が、街道の先に伸びていた。
* * *
学院の門をくぐり、三町ほど歩いたところで——
「師匠」
ノエルが前を見たまま言った。
「師匠が声を取り戻せる日、必ず来ますよね」
アルドは歩きながら、ノートを開いた。
『来ますよ』
「確信してますか」
『もちろんです』
「……根拠は?」
アルドは少し考えた。
それから書いた。
『貴女を、信じているからです』
ノエルが、しばらく黙った。
それから、革張りのノートを胸に抱え直した。
「……わかりました。じゃあ私も確信します」
二人は、歩き続けた。
空の高いところで、レイの尾羽が光を受けて白く輝いた。
* * *
「出発の朝、彼女は『楽しみですね』と言った。
私も、そう思った。
六十二年という数字を知っていても——そう思った」
―― アルド、筆談ノートより
大きく変わる物語ではありません。
ただ、同じ場所に居続けることで、少しずつ形を変えていくものを書きました。
読んでくださったあなたの中にも、静かに残る景色があれば嬉しいです。




