第6話 学院が知らないこと
これは「代償」の重さが、現実として現れ始める章です。
声を削られながらも歩みを止めない師匠と、その理由を知って前を向こうとする弟子。
優しさだけでは成立しない契約が、少しずつ二人の人生そのものになっていきます。
リトシステムのチョーカー(俗に“枷”と呼ばれる)をつけてから、一ヶ月が経った。
声は、まだあった。
正確には「使えば使うほど削られていく」という感覚に変わっていた。
話すたびに、細い糸が一本ずつほどけていくような。
気づかれないように、アルドは授業中の発話を少しずつ減らした。
学生たちは気づいていなかった。
同僚のほとんどは、気づいていなかった。
フォルクだけが、時々アルドの喉元を見ていたが、
何も言わなかった。
* * *
問題が起きたのは、枷をつけてから四十三日目のことだった。
そのときは、突然やってきた。
神霊文学の講義中——
第三節の解説をしていたアルドの声が、突然、出なくなった。
正確には「出ない」ではない。
出ようとした瞬間、枷が静かに締まった。
喉の奥で何かが止まる感触。
声の代わりに、細い息だけが漏れた。
教室が、しんとした。
三十人の学生が、アルドのその様子を目撃した。
アルドは三秒で判断した。
黒板に向かって歩いた。
チョークで、大きく書いた。
『本日より、板書形式で進めます。静粛にして板書を写してください』
最前列の学生が手を挙げた。「先生、声は——」
アルドは追加で書いた。
『問題ありません』
誰も、それ以上何も言わなかった。
* * *
講義が終わった後、フォルクが研究室に来た。
ドアを閉めて、椅子にも座らず、
まっすぐアルドを見て言った。
「一ヶ月前から、おかしいと思っていた」
アルドはノートを開いた。
『体調管理が甘かったようです。ご迷惑をおかけしました』
「体調の話じゃないでしょう」
『……』
「あの枷は何ですか。学院の術具記録にない。
申請も届け出もない。君が自分で設計したものですね」
アルドは止まった。
「私は魔術史の研究者です」と、フォルクは静かに言った。
「あの術式の構造、見ればわかります。代償の肩代わり契約——しかも相当な規模の。しかもテノアの遅延転送なんて複雑な流路にして。 いったい、誰の代償を引き受けているんですか」
長い沈黙があった。
アルドはゆっくりと答えを書いた。
『学生の一人です。非常に稀有な才能を持っている。ただし詠唱の制御に難があり、代償の発生リスクが高い。私が肩代わりした方が、トータルの損失が少ないと判断しました』
「結局、声を失う方向になっているじゃないですか」
『想定の範囲内です』
「アルド」
フォルクの声が、一段低くなった。
「学院に報告しなかったのは、なぜですか」
アルドはペンを持ったまま、すぐに答えられなかった。
フォルクは続けた。
「報告すれば、学院は対応します。
その学生に適切なカリキュラムを組む、
他の教授が指導を担当する、
公式の代償軽減術式を適用する——方法はあります。なぜ、独断で」
アルドは窓の外を見た。
中庭で、学生たちが昼休みを過ごしていた。
ノエルの姿はない——今日は旧棟の練習室にいるはずだ。
アルドはノートに書いた。
『学院のカリキュラムが、その学生の才能に対応できないからです』
「…………」
『学院が「適切」と判断するカリキュラムは、
その学生の良さを殺してしまう。良さを活かすことができない。
測定上限の七倍の数値を叩き出した学生に、
学院は「再現性がない」と記録しました。
公式の代償軽減術式を適用すれば、その才能は確実に無くなってしまう』
フォルクは何も言えかった。
『私には、それが許せなかった』
また沈黙があった。
『それに、ノエルには、可能性があるんです。古代詠唱魔術を再現する手掛かりが』
フォルクがため息をついた。
それから、椅子を引いて、ようやく腰を下ろした。
「契約の期間は、どう決めましたか?」
『ノエルが、詠唱ミスなく最後まで詠唱できるようになればと。
その時点で、契約は自然に終了します』
「あなたの……声は、戻るんですよね」
『完済すれば』
「完済って、今、どのくらいテノアを積んでいるんです?」
『今は――』
アルドは空中にルーンを描く。リトのシステムが返答を返した。
『現在のテノア残高:六十二年と二ヶ月です』
フォルクが、絶句した。
「……六十二年」
『多少の、誤差はありますよ』
「誤差の問題じゃ——」
『ただし、上振れる可能性の方が高いです。あの子は詠唱のたびに即興を入れるので、計算が難しい部分があります』
フォルクがしばらく天井を見上げた。
「……アルド。君は、馬鹿ですか」
『よく言われます』
また沈黙があった。
今度は、少し長かった。
フォルクは最終的に、立ち上がった。
「……学院への報告は、しませんが……」
アルドが顔を上げた。
「君が独断でやったことは事実です。
規定違反と言えば、そうかもしれない。ただ——」
フォルクはドアに向かいながら、振り返らずに言った。
「六十二年、声なしで生きると決めた人間に、
私が何を言えるというんですか」
ドアが、静かに閉まった。
* * *
その夕方。
練習室からの帰り道、ノエルがアルドの隣を歩いていた。
今日の第Ⅶ節の結果を報告していた。
「四十五回やって、四十二回成功しました!」
アルドは頷いた。
「三回噛みましたけど、でも昨日より一回少ないです!」
アルドはノートを取り出した。
『よく、頑張りました』
「師匠、今日の声——」
ノエルが、アルドの喉元を見た。
何か言いかけて、言い淀む。
アルドは前を向いたまま歩いた。
「……師匠、今日は授業、板書でやったって聞きました」
『誰かに、聞いたのですか』
「フォルク先生から、少し」
アルドはペンを止めた。
「あの、私……」
ノエルの声が、小さくなった。
「私が、噛むからですよね」
『ノエル』
「私が噛まなければ、師匠は——」
『ノエル』
今度は少しやさしく呼んだ。
アルドは立ち止まった。
ノエルもそれに倣う。
アルドはノートを開いた。
ゆっくりと、丁寧に書いた。
『これは私が選んだことです。
貴女が謝る必要は、ひとつもありません』
「でも」
『「でも」はありません。気にしないでください』
「師匠……」
『ただ——ひとつだけ、お願いがあります』
ノエルが、じっとノートを見た。
『声が出なくなっても、私はここにいます。あなたと一緒に。ここにいます。
それだけ、覚えておいてください』
夕暮れの廊下に、光が差し込んでいた。
ノエルが、ゆっくりと頷いた。
それから——泣くかと思ったら、今日は泣かなかった。
代わりに、深呼吸を一度して、顔を上げた。
「……わかりました。じゃあ私も、ひとつだけ」
『はい』
「絶対に、師匠の『声』を取り戻して見せますね!」
アルドは、何も書かなかった。
ただ、歩き出した。
ノエルがその隣に並んだ。
二人の影が、廊下に長く伸びていた。
* * *
「六十二年、と彼女に言わなかった。
言う必要はないと思った——彼女には、完済する気があるのだから」
―― アルド、筆談ノートより
アルドは、自分の選択を一度も“犠牲”だと思っていません。
だからこそ周囲には止められず、ノエルには返済する意思が生まれてしまう。
「六十二年」という数字は絶望的なはずなのに、最後の二人の影には、どこか未来の気配が残っている気がします。




