第5話 声の在処
これは「契約」の話であり、同時に「観測」の物語です。
喉を差し出した研究者と、名前を言い切れなかった少女。
互いに欠けたまま始まった関係が、少しずつ“師弟”という形を持ちはじめる夜を書きました。
あの夜のことを、アルドは今でも正確に覚えている。
研究室の蝋燭が三本。
窓の外に風。
ノエルが持ってきた茶が、すっかり冷めていた。
ノートを挟んで向かい合い、術式の設計図を広げてから、
もう二時間が経っていた。
「……つまり、そのチョーカーをつければ、
アルド先生が私の代わりに痛い思いをするってことですよね」
ノエルはまだ「師匠」とは呼んでいなかった。
「アルド先生」——と、そう呼んでいた頃。
アルドはペンを取った。
『正確には「痛い思い」ではなく、代償の肩代わりです。貴女の詠唱ミスによって発生するテノアを、私の喉が代わりに引き受ける。それだけです』
「それだけ、って……」
ノエルが設計図を見た。
神霊文字がびっしりと書き込まれた羊皮紙。
意味はわからない。
でも、その密度だけで、これがどれほどの術式かは伝わった。
「これ、どのくらいかかったんですか」
『三ヶ月ほど』
「三ヶ月……」
『当初の設計より複雑になりました。
貴女の詠唱の精度が想定を上回っていたので、
それに合わせてチョーカーの耐久値を引き上げました』
ノエルが瞬きをした。
「……精度が上だと、枷が大変になるんですか」
『神々がより強く動く分、余剰が増えます。
簡単に言えば——貴女が上手いほど、私の喉は忙しくなります』
奇妙な沈黙があった。
ノエルはしばらく設計図と、アルドと、また設計図を交互に見た。
それから、やっと口を開いた。
「……嫌です」
アルドはペンを止めた。
「そんなの、嫌です。アルド先生は声を失う痛みを追うのに、なのに、私だけ」
『嫌、と言われても』
「だって不公平じゃないですか」
『不公平ではありません。これは取引です。
貴女には詠唱をしてもらう。
私はその余剰を受け取る。
等価交換です』
「等価じゃないです」ノエルの声が、少し強くなった。
「アルドさんが受け取るのは痛みだけ、代わりに私は何も負うものがない」
アルドはしばらく考えた。
ペンを持ったまま、窓の外を見た。
夜の学院は静かだった。
正規の授業が行われる南棟の明かりは、もうすべて落ちていた。
彼が書いたのは、こうだった。
『いえ、何もないわけじゃありません……貴女の詠唱を、最前列で聞く権利です』
ノエルが、息を呑んだ。
『私にとってそれは、十分な対価です。
いえ——正直に言えば、お釣りが来るほどですよ』
長い沈黙があった。
蝋燭の炎が、ゆれた。
「……本当に、それでいいんですか」
『はい』
「後悔しませんか。私なんかに」
『今のところ、研究者として後悔する要素が見当たりませんよ。
貴方はもっと、自分の紡ぐ言の葉に自信を持った方がいい』
「そんな自信なんて――でも、研究者として、って」
『神霊文学の研究者として、ですよ。
この契約は学術的に見ても非常に興味深い試みです。
過去に前例がないので』
ノエルがじっとアルドを見た。
アルドは視線を設計図に戻した。
「……アルド先生」
『なんでしょう』
「嘘、ついてますよね」
今度こそ、アルドはペンを置いた。
ノエルが、静かに続けた。
「研究者として、じゃないですよね。それだけじゃ、ないですよね」
夜風が、窓の隙間から入ってきた。
蝋燭が、また揺れた。
アルドは新しいページを開いた。
ゆっくりと、丁寧に書いた。
『……貴女の詠唱を聞いた日、私は三十年分の答えを見た気がしました。
神霊がなぜ人間の言葉に動かされるのか。
詩がなぜ世界を変えうるのか。
私が研究してきたことの、すべての答えが——
あの踊り場で泣いていた女の子の声の中にあった』
ノエルの目が、じわりと揺れた。
『だから、賭けます。
研究者として、ではなく。
ただの一人の人間として——
これ以上ない価値のあるものを見つけたから、賭けます』
しばらく、何も言えなかった。
ノエルが袖で目をこすった。
盛大に鼻をすすった。
「……わかりました」
小さな声だった。
「わかりました。でも——」
彼女は顔を上げた。目が赤い。でも、まっすぐだった。
「絶対に、必ず、ちゃんと名乗れるようになります。
噛まないで、最後まで、きちんと言えるようになります。
だから——早く完済できるように、頑張ります」
アルドはその言葉を聞いた。
それから、ノートに一言だけ書いた。
『……楽しみにしています』
* * *
儀式は、その夜に行った。
学院の規定には存在しない術式だった。
どこかに届け出るものでも、許可を取るものでもない。
アルドが独断で設計し、独断で実施した、
学院が知らない契約だった。
ノエルが左手を差し出した。
アルドが術式に従って、指先に魔力のルーンを刻んだ。
首元の黒銀のチョーカーに、ルーンが刻まれる——
ソフィアの声が、冷たく響いた。
『リトシステムの代償契約の成立を確認しました。
術者:ノエル・ブライトガーデン。
代行者:アルド。
有効条件:術者の権限名乗りの不完全な発声、
および詠唱の逸脱に伴う余剰代償の全肩代わり。
テノア残高:ゼロ。
以上』
ノエルが「リトシステム? テノア?」と呟いた。
アルドがノートに書いた。
『リトシステムは、神霊を使役する魔術詠唱を行う我々、魔術詠唱士が、
その詠唱結果に応じて負う、代償、テノアを管理する仕組みです。
テノアは残高として、時間として示されるんです』
『ちなみに「ゼロ」というのは今だけですよ。学院内ではテノアは発生しないよう調整されていますから』
そのひと言の意味を理解したノエルが、
「が、頑張ります……!」と声を震わせた。
アルドは答えなかった。
チョーカーの感触を、静かに確かめた。
まだ何も感じない。
冷たい金属の感触だけがある。
これが、始まりだった。
* * *
翌朝。
廊下でばったり出くわした同僚の教授——
歴史魔術学担当のフォルクが、アルドの首元を見て目を細めた。
フォルクがアルドの首元を見て、眉を寄せる。
「……アルド、そのリトのチョーカー……
標準のモデルじゃないな。
外勤用のリト式はもっと簡素なはずだが」
アルドはノートを開く。
『研究用に改造した試作品です。学院の規定にはありません』
フォルクはさらに目を細める。
「……お前、また独自研究を進めているのか。
代償の流路をいじるなんて危険だぞ。
喉に直接負荷が来るタイプは、普通は使わない」
アルドは淡々と書く。
『安全性は確認済みです』
フォルクはため息をつく。
「……お前の研究はいつも理解できん。
だが、無理はするなよ」
アルドは平静な顔で頷いた。
昨夜の契約で、すでに声はわずかに変わっていた。
正確には、使おうとするたびに、細い針で刺されるような感覚がある。
まだ喋れる。まだ声は出る。
ただ——時間の問題だということも、アルドにはわかっていた。
『問題ありません。研究の一環ですよ』
「研究の一環で自分の喉にリトのチョーカーを……」
『ご心配なく』
フォルクはしばらくアルドを見た。
何か言いたそうだった。
でも、アルドの表情が何も語らないので、
結局ため息をひとつついて、廊下を歩いていった。
アルドはその背中を見送った。
ノートを閉じた。
今日の午後は、ノエルの自主練に付き合う約束がある。
第Ⅶ節の反復練習——苦手な権限名乗りを、何度も何度も繰り返す。
アルドは廊下を歩き出した。
首元の枷が、朝の光を受けて、かすかに光った。
* * *
「ノエル・ブライトガーデン」
「ノエル・ブライトガーデン」
「ノエル・ブライトガーデン」
旧棟の練習室に、ノエルの声が響いていた。
書いて、声に出す。書いて、声に出す。
二十回、三十回、四十回。
書く分には、完璧だった。
声に出す分には、九割九分、完璧だった。
しかし十回に一度、いや二十回に一度——
何かが起きる。
神霊の視線が肌に触れる。
その重さに押されて、感情が先走る。
最後の一音が、ずれる。
「……また」
ノエルが項垂れた。
アルドはノートに書いた。
『今日は何回成功しましたか』
「……三十七回」
『三十七回、正確に名乗れました。それは事実です』
「でも三回噛みました」
『三回噛みました。それも事実です。
ただ——噛んだ三回、枷を通じて感じたのですが』
ノエルが顔を上げた。
『神霊の視線が、特に強かった。
正確に名乗れた三十七回より、
噛んだ三回の方が、神々は前のめりになっていました』
「…………」
『これは責めているのではありません。
ただの、観測結果の報告です』
ノエルがしばらく黙った。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……アルド先生」
『はい』
「私、アルド先生のこと——」
言いかけて、そして決意する。
アルドはその言葉を待った。
「……師匠、って呼んでもいいですか」
蝋燭のない昼間の練習室に、
窓から光が差し込んでいた。
アルドはしばらく動かなかった。
それから、ノートを開いた。
『……好きにしてください』
ぶっきらぼうな回答だった。
ノエルが、声を上げて笑った。
「師匠! 今の、照れてましたよね!」
『照れていません』
「絶対照れてました! ペンの速度が速かったです!」
『そのような観測は信頼性が低い』
「師匠ーっ!」
アルドは前を向いた。
窓の外を見た。
唇の端が、わずかに動いた。
首元の枷が、ほのかに温かかった。
* * *
「好きにしてください、と書いた。
あれは生涯で最も正直な言葉だったかもしれない」
―― アルド、筆談ノートより
アルドは最初から、自分が損をする契約だと理解しています。
それでも彼にとっては、ノエルの詠唱を最前列で見届けること自体が、研究を超えた“報酬”でした。
「好きにしてください」という文字に、彼の不器用な人生が全部詰まっていた気がします。




