第4話 エリートと落第生
ハルベルトの市場で再会したかつての同期。
王都の精鋭として「正解」を歩む彼と、卒業すら叶わず「異常」のまま旅を続けるノエル。
対照的な二人の邂逅は、魔術における「正しさ」とは何か、そして神々に届く言葉の本質を静かに問いかけます。
ハルベルトに、三日滞在した。
二日目の昼すぎ、市場で食材を買っていたノエルが、
思いがけない人物と鉢合わせした。
「……ブライトガーデン?」
男の声で、ノエルは振り返った。
背の高い青年だった。整った顔立ち。
学院の制服ではなく、今は魔術詠唱士の正装——
群青色の外套に白い刺繍が入っている。
王都から依頼を請けて地方に下りてきた格上の魔術師が好んで着る、
あの一式だった。
「マルク……さん」
ノエル・ブライトガーデンを実技試験で「暴発」と評した同期のうちの一人、
マルク・レインズだった。
今は卒業して、王立魔術師団の正式隊員になっている。
街の人々が道を開けた——「王都の先生方だ」という囁きが聞こえた。
隣には同じ制服を着た仲間が二名いた。
マルクは驚いたように眉を上げた。
それからすぐ、どこか距離を置いた笑顔を作った。
「まだ地方を回っているのか。君は……たしか、卒業できなかったんだったな」
「はい……」
ノエルは微笑んだ。
棘のない、素直な笑顔だった。
「今でも師匠と一緒に依頼を受けてます。昨日、水害の治癒をしてきました」
「中級依頼か。……あのアルド教授と、まだ?」
マルクの声に、微かに何かが混じった。
ノエルはそれに気づいたが、正確に名前をつけることができなかった。
困惑、だろうか。
それとも、別の何かだろうか。
「ええ、師匠は元気ですよ」
「そうか」
マルクが、ノエルを上から下まで見た。
制服ではない普段着。
手に持った買い物かご。
詠唱の残滓が指先に残っている——昨日の詠唱の痕跡だ。
「無理しているのなら、なにも学院にこだわる必要はないだろう。別の道もある。王都には初歩からやり直せる民間の魔術塾も——」
「あの」
ノエルが、静かに遮った。
マルクが口を閉じた。
「昨日の詠唱、水の精霊が喜んでくれたんです」
「............」
「精霊が笑ったら水面に波紋が立つって、師匠が教えてくれたんですけど——昨日は、すごく大きな笑い波でした。広場のお水が全部ぱちゃぱちゃしてて」
マルクは何も言わなかった。
「ノエル・ブライトガデェン、って噛んじゃったんですけどね」
えへへと、ノエルが自分で笑った。
小さく、でも本当に楽しそうに。
「それでも川は元に戻りましたし、精霊は笑ってましたし、師匠が『セレスへの讃美は私にも真似できない韻だった』って書いてくれたので——今日も精進します」
マルクは、しばらく黙っていた。
隣の仲間の一人が「先輩、行きましょう」と声をかけた。
マルクが短く頷いた。
「……達者でな、ブライトガーデン」
「はい! マルクさんも」
ノエルは笑って手を振った。
マルクたちが市場の奥へ歩いていくのを見送った。
* * *
その一部始終を、マルクたちの視線の外から見ていた人物が一人いた。
野菜の屋台の陰に立ち、荷物を持ち、ノエルが手を振るのを無言で見届けた。
アルドはノートを取り出した。
書きかけて、止めた。
また書きかけて、また止めた。
結局、何も書かずにノートをしまった。
ノエルが振り返り「師匠! 知り合いに会いました!」と言いながら駆けてきた。
アルドは平静な顔で頷いた。
手を伸ばして、さりげなくノエルの手から買い物かごを受け取った。
重くなっていたから——それだけだった。
「マルクさん、王都の魔術師団に入ったんですって。すごいですよね」
『ええ』
「私も頑張らないと、ですね」
アルドは歩きながら書いた。
『今日も頑張っているじゃないですか』
「噛みましたけど」
『水害は収まりました』
「でも噛みましたよ」
『精霊は笑いましたよ』
「笑われましたっ!」
『笑顔は好意の表出ですよ』
ノエルが「むーっ」と唸った。
アルドは前を向いたまま、唇の端をわずかに動かした。
宿に帰ると、レイが窓枠に止まっていた。
「遅かったね、二人とも」
「知り合いに会って」とノエルが言った。
「知っている」レイが言った。「気流で聞いていた」
「いつからなの? レイさんっ」
「一部始終かな」
ノエルが「もうっ」と言った。レイは気にしなかった。
「若造」
アルドがレイを見た。
「あの青年の魔術師、名前はたしかマルク・レインズだったな。
今年の春に王都でガイアスへの単独詠唱を試みて、
代償として右腕の感覚を三日間失った。正確な情報かは確かめていないが、
神界の気流の評判だ」
アルドはレイの言葉を考えた。
「教科書通りの詠唱は完璧だったが、なぜか代償を負ったらしい。
その上でガイアスは動かなかった——気難しい爺さんだからね、
あの大地の神様は。ノエルが昨日セレスに渡した即興の一節のような
『余白の感情』がなかったから、結局動かなかった」
レイは窓から外を見た。
「正確に用意した言葉と、溢れ出した言葉——どちらが神に届くか。
ボクが百年かけて出した答えは、後者だ」
静かな部屋に、夕暮れの光が差し込んでいた。
アルドはノートを開いた。
しかし今度は、誰かに向けて書くのではなく、自分のために書いた。
『教科書通りの100点を取れる秀才は毎年100人卒業していく。
だが、世界そのものに愛され、神霊と直接言葉を交わせる者は——』
自分が三年前に書いた言葉の続きに、彼は新しく一行を加えた。
『——その者の「噛み」すら、神々は待ちわびている』
* * *
その日の夜。
ノエルは眠る前に、革張りのノートを開いた。
アルドに最初にもらった日から、何度も書き直した術式がそこにある。飴色に変わった表紙を、いつもの癖でそっとなでた。
ペンを取り、第Ⅶ節の練習欄に書いた。
「ノエル・ブライトガーデン」
書くと、完璧だった。
ひとつも間違えず、一画も乱れず。
声に出すと——なぜか、いつもここで何かが起きる。神霊の視線が肌に触れる感覚。期待の重さ。それに押されて、言葉より先に感情が走る。
「いつかは、ちゃんと言えますよね」
誰もいない部屋で、ノエルは呟いた。
窓の外で、レイの尾羽が月光を受けて光った。
「言えるとも」
低い声が、夜風に乗って届いた。
「——ただし、それがいつかはボクにも分からない」
ノエルが窓を開けた。レイが片目を細めた。
「ボクが確かに知っているのは、ひとつだけだ」
「なんですか?」
「お前が噛まなくなった時——世界が、少し寂しくなる」
ノエルは瞬きをした。
それから、声を上げて笑った。
「もうっ、レイさんって意地悪ですね!」
「ボクは正直なだけだ」
「どっちですか!」
「両方だ」
隣の部屋で、アルドがノートに書きつける音がした。
『テノア残高:62年5ヶ月と9日。』
『今夜は、悪くない。』
そう、悪くなかった。
* * *
「あの子が噛まなくなった時、世界が少し寂しくなる——それはボクだけの意見じゃない」
―― レイ(サンコウチョウ)、初日の夜
「お前が噛まなくなった時、世界が少し寂しくなる」――。
毒舌な精霊レイが漏らしたその本音は、不完全なまま輝くノエルへの最大の賛辞でした。
代償の残高は減らずとも、師匠アルドのノートに記された「今夜は、悪くない」という一行が、この旅の充足を物語っています。




