第3話 三羽目の迷惑
朝の光が差し込む宿の窓辺、師弟の前に現れたのは一羽のサンコウチョウ。
自らを「最も賢く、最も美しい」と豪語する高位精霊レイは、ノエルの声に宿る「真の才能」を神界から聞きつけ、その旅に加わることを宣言します。
毒舌な鳥と筆談の師匠、そして泣き虫な弟子。奇妙な三人組の新たな幕開けです。
翌朝、アルドは宿の窓際で茶を淹れていた。
起床は夜明けの前だった。
眠りが浅いのは枷のせいではなく習慣だ——
十年来の癖は、体に刻み込まれた規則正しい苦行だった。
湯を注ぎ、茶葉が開くのを待ちながら、昨日の収支をノートの端に記す。
依頼:水害治癒・完遂。
報酬:銀貨四十二枚。
経費:宿泊二名・食事代・ノエルの転んで破いたストッキング代。
収支:プラス。
リボ払い残高:62年5ヶ月と9日。
ペンを置いた。
「プラス」という単語を見て、短く息をついた。
魔術師の帳簿に「プラス」という文字が書ける日は、そう多くない。
隣の部屋からノエルの寝息が聞こえる。
まだよく眠っている。
昨日の詠唱の疲労だろう——中級とはいえ、Ⅵ節まで完璧に通してしまったのだ。
本人は「第Ⅶ節で噛んだので全部台無しです」と泣いていたが、
神々への接待という観点では昨日の出来は及第点をゆうに超えていた。
セレスが微笑んだのだ。
あの温度を、アルドは喉の枷を通じて正確に覚えていた。
慈愛の女神が「よかった」と思った時だけ流れてくる、
春の日差しに似た柔らかな熱。
枷の灼熱とはまったく違う——あれは「贈り物」の温度だった。
ノエルは知らないだろう。
知らせる必要も、今はない。
アルドはカップを口に運んだ。静かな朝だった。
* * *
その静けさを、窓から侵入してきたものが遮った。
最初は羽音だと思った。
虫にしては大きい、と思い直した。
鳥にしては重さがない、と考えたところで、窓枠に一羽の鳥が降り立った。
サンコウチョウだった。
黒と青の光沢を持つ羽。長い尾羽が窓の外に垂れ下がっている。
目が——その小さな目が、アルドを見ていた。
ガラス玉のような黒い瞳が、値踏みをするように細くなった。
「……ほう」
鳥が喋った。
低く、落ち着いた声だった。
人間の声ではない——空気が直接意味を持ったような、そんな響きだった。
しかし不快ではなかった。
むしろ、よく練れた絹のような声だと思った。
「ずいぶん飾り気のない師匠だね」
アルドはカップをソーサーに置いた。
それから、ノートを開いた。
ペンを取り、一行書いた。
【一般的に、喋る鳥への挨拶の作法は存在しません。初めまして】
「ほう、筆談か」
鳥の目が、アルドの喉元に向いた。
高い場所から見下ろすような視線だった——
鳥としての物理的な位置もあるが、
それ以上の「見下し」が確かに含まれていた。
「その枷。見事な業だね、若造。自分の声をみすみす担保に差し出すとは——
ボクが百年生きてきた中でも、これほど割の合わない選択をした人間は、
二、三人しか見ていない」
【百年と言いましたが、見た目は小鳥です。矛盾が生じています】
「外見で判断するのは愚かな人間の悪習だ」鳥は尾羽を一振りした。
「ボクはレイ。この物語で最も賢く、最も美しく、最も役に立つ存在だ。
覚えておきな、若造」
【自己申告で「最も」が三つ入る自己紹介は信頼性が低い傾向があります】
「ほう」
レイは首を傾けた。小さな胸元が微かに膨らんだ。
怒っているのか、それとも笑っているのか、
アルドには判断できなかった。
「なかなか生意気な若造じゃないか」
【若造という呼称に異議があります。あなたはおいくつですか】
「君が何歳であろうとボクよりは若いよ」
反論できなかった。アルドはペンを置いた。
鳥は窓枠をゆっくり歩いた。長い尾羽が風に揺れた。
朝の光を受けた黒い羽が、深い青を透かして光った。
美しい、とアルドは思った。
観察者として、純粋に。
「ノエルは?」
【まだ眠っています】
「そうか」
レイの声が、一段柔らかくなった。ほんのわずか——
しかしアルドは、その変化を見逃さなかった。
「……あの子の詠唱を、随分と遠くから聞いていた」
【遠くから、とは】
「神界の気流に乗ると、この大陸のどこからでも届く声がある。
ほとんどの詠唱師の声は届かない——波長が浅いから。
でも時々、神界の底まで貫いてくる声がある」
レイは窓枠から飛び立ち、部屋の中央の椅子の背もたれに降り立った。
その動きは無音だった。
「昨日の第Ⅵ節。ボクが百年聞いてきた中で、
あれほど完璧なセレスへの讃美は三度しか存在しない。
うち二度は千年前の伝説的な大魔法使いが詠んだものだ」
アルドは動かなかった。
「残りの一度が、昨日あの広場で、あの子が詠んだ一節だ」
長い沈黙があった。
アルドは新しいページを開いて、ゆっくりと書いた。
【……それを、確かめに来たのですか】
「確かめる必要はない」レイは目を細めた。「ボクは既に知っている。だから来た」
【では、なぜ来たのですか】
「決まっているだろう」
鳥が、アルドをまっすぐに見た。
「あの子には、ボクが必要だ」
* * *
ノエルが起きてきたのは、それから一時間後だった。
寝ぐせを直しきれていない頭で、目をこすりながら居間に現れた彼女は、
椅子の背もたれに鳥が止まっているのを見て、しばらく動かなかった。
「......師匠」
アルドは茶を二杯目に注いでいた。
「あの」
「......」
「鳥、いますね」
【いますね】
「なんか、こっち見てますね」
「当然だ」レイが言った。「見事な頭上のオブジェクトだよ。寝ぐせというものは、その者の潜在意識が出力した無意識の彫刻だ——芸術として鑑賞している」
ノエルが硬直した。
「...... 喋った」
「喋るよ」
「鳥が......」
「鳥の姿を借りた高位精霊と呼ばれたい」レイは首を傾けた。
「ノエル・ブライトガーデン——昨日の第Ⅵ節、第三の比喩句。
『慈雨は荒れ野を大地へと変える』の後に続けた節だ。あれはどこから出てきた?」
ノエルが瞬きをした。寝ぼけた目が、少しずつ焦点を結んでいった。
「……あの、えっと、練習していたのと少し違って。水霊が見えた気がして、
なんか水が嬉しそうにしてるなって思ったら、急に出てきてしまって」
「急に、か」
「はい。ノートの通りじゃなくて、すみません」
「謝る必要はない」
レイが椅子から飛び立ち、テーブルの端に降り立った。
その目が、今度は正面からノエルを見た。
「あれはセレスが聞いていた。正確に言えば、
セレスのお気に入りの水霊が反応した振動を、あの子が感知して、
そのまま言葉にした。ノートの外側にある声を引き出した」
「そんな、偶然で」
「偶然とは呼ばない」
レイの声が、静かに確信を帯びた。
「あれを偶然と呼ぶ人間は、稲妻が落ちた場所を
『運悪く選んだ地面だ』と言うのと同じだ。
稲妻は必然的に、最も電位差の高い場所に落ちる。
昨日の第Ⅵ節のあの一句は、必然的に、神霊と最も波長の合う声から出てきた。
それがお前の声だ、ノエル・ブライトガーデン」
沈黙があった。
ノエルが、少し泣きそうな顔をした。
「でも、ちゃんと噛みましたし」
「知っている」レイが言った。「ガデェン、だったね」
「……ガデェン、でした」
「最後の一音で台無しにする才能は大したものだ」
ノエルが今度こそ泣きそうになった。アルドがテーブルにノートを滑らせた。
【レイ、それ以上はやめてください】
「やめてない。続けている。ただし——」
レイが、ノエルをまっすぐ見たまま言った。
「——台無しにする才能も、本物の才能の証明だ。完璧な人形は噛まない。でも、完璧な人形は神様を感動させない。完璧な詩を用意している最中に、もっと美しい詩が心から溢れてしまう——それがお前の欠点の正体だ」
長い間があった。
ノエルが鼻をすすった。
「……レイさんは、なんで私のところに来たんですか」
レイが、尾羽を一振りした。
「決まっているだろう。ボクが来てやることにした——気が向いたから、それだけだ」
【気が向いた、と言うが昨日から神界の気流に乗ってここを探していた、
と聞きました】
「若造、お前は筆談の筆が滑りすぎる」
【事実の記録は私の専門です】
ノエルが、鼻をすすりながら笑った。
* * *
その日から、三人の旅が始まった。
実際には、何も派手なことは起きなかった。
アルドは宿の女将に「三名です」と書いたノートを見せた。
女将が「三名様ですね」と言ってアルドとノエルを見て「あとお一人は?」と首を傾げた。レイが窓枠に止まって「ボクだ、よく見ろ」と言った瞬間、女将が悲鳴を上げた。
「鳥が! 鳥が喋った!」
「失礼な。精霊だ」
「精霊が! 精霊が喋った!」
アルドがノートに書いた。【部屋は二室で構いません。ただし窓の開いた部屋を。精霊が出入りするので】
女将がしばらくアルドとレイを交互に見て、
それから長いため息をついた。「……割増なしで構いませんよ」と言った。
翌朝の朝食に、鳥のための皿が用意されていた。
「完璧な人形は噛まない。だが、神様を感動させない」――。
レイが放った言葉は、失敗を恐れるノエルの心を救い、同時にアルドが彼女を肯定し続ける理由をも物語っていました。
宿の女将に悲鳴を上げさせながらも始まった賑やかな旅は、今日も誰にも真似できない「美しい詩」を世界に刻んでいきます。




