第2話 今日もノエルは噛んだ
王国南方の辺境街、ハルベルト。
朝の市場が立つ広場の端、荷馬車の陰で、アルドはノートを開いていた。
リトシステム—―魔術行使の管理システムの記録を残す。
『テノア残高(現在推計):58年9ヶ月と23日。誤差±2年。』
ペンを走らせながら、斜め前方で準備をしているノエルを横目に確認する。
今日の依頼は湿地帯の水害治癒。水の精霊を呼び、川の氾濫域を元の水路に戻す術式だ。
難易度は中級——ノエルには造作もないだろう。
問題は第Ⅶ節だ。
いつもそうだ。問題は、いつも詠唱終盤の名乗りのところ。
ちょうど、今日の詠唱の構成では七節目にあたる。
「では行きます、師匠!」
ノエルが革張りのノートを胸に抱いて振り返った。目が輝いている。
朝から声がよく通っている。今日は調子がいい、とアルドは感知した——精霊の放つ魔力から、精霊たちの期待値が既に上向いているのがわかる。
『よし。今日は成功するかもしれない』
瞳を閉じて、深く息を吐き出す。
そうして息を整えてのち、ノエルは魔術行使のための交渉として、言の葉を唱え始めた。
第Ⅰ節——滑らかだ。ルナが水面を揺らした。
第Ⅱ節——精緻な景色の描写。テラが低く唸った。
第Ⅲ節——水霊の真名呼び。ルナが喜びで泡立ちを起こした。
第Ⅳ節、第Ⅴ節——完璧だった。アルドは知らず知らず前のめりになっていた。ここまで、精霊の反応がわかりやすい詠唱を行う生徒は、学院には稀であったのだ。しかもいずれの精霊も反応が好意的である。
第Ⅵ節——最長の讃美。ノエルの声が豊かに膨らんで、広場の空気が変わった。周囲の理が書き換わり、それぞればらばらに動いていた異なる属性の精霊たちが、同じ目標に向かっていくような。場の空気が一段階上がった。
水霊が集まってくる気配がある。
その先にはさらに上位の神霊の気配がある。中級神がひとり、セレスが動いた——遠い神界で実りの女神が微笑んだのが、わかる。
『いける。今日はいける』
そして第Ⅶ節。
「水霊の御慈悲に代わりて——我、ノエル・ブライトガー……」
『さあ、今日こそ。今日こそ、落ち着いて名乗りを—―』
「……ノエル・ブライトガデェン!」
お約束である。
枷が鳴った。
首筋を灼熱が走り抜け、アルドの喉が内側から焼けた。静かに、しかし確実に。
彼は顔色を変えずに荷馬車の陰に手をついた。リトシステムの声が、枷の中で冷たく響いた——
『任意節の詠唱を確認。また、最後の一音の変形、並びに権限名乗りの不完全な発声。テノア残高に三年と七ヶ月を追加します』
ノエルが振り返った。顔が真っ青だった。
その表情とは真逆に、魔術詠唱の効果は美しく、綺麗に決まっている。
「師匠ぉ……」
アルドはノートを開いた。ペンを走らせる。
『大丈夫です。水霊は来ました。依頼は完遂です』
「でも、でもっ私、また噛んでっ……」
『問題ありません――』と、慰めるよう優しく、『ちなみに今の繋げ方ですが——
「ガデェン」と言った瞬間、川の精霊たちが爆笑していました。
水面に笑い波が立ちました。あれも詩的表現と見なされた可能性があります』
それでも、ノエルが静かに声を上げて泣き始めてしまった。
アルドはペンを置いた。
やれやれと呆れたように天を仰ぎ、それから静かにノートに書いた。
『完済予定日が少し延びただけです』
そっと、ノエルの頭に手を置いて、続けた。
『それより——第Ⅵ節の讃美。今日のセレスへの呼びかけは、
私には真似できない韻を踏んでいました』
ノエルはノートを覗き込んだ。
その目が、じわりと揺れた。
「……師匠っ」
アルドは答えなかった。筆談で言葉を返すことも控えていた。
ただ、ノエルのノートを拾い上げて、砂埃を静かに払ってから、そっと彼女に渡す。
遠くの空では、ノエルの詠唱で気持ちが沸き立った水霊が、軽やかに、そして楽しそうに舞い、踊っていた。
* * *
『私の喉にテノアが積まれる音は、
彼女が世界を救うための美しい伴奏に過ぎない』
―― アルド、辺境の町ハルベルトにて




