第9話 はじめての依頼板
旅に出て三日目。
まだ見慣れない街道の風景に胸を弾ませるノエルと、
淡々と歩きながらも周囲を観察し続けるアルド。
そして空のどこかから、気まぐれに降りてくる高位精霊レイ。
小さな町カルヴァで、三人は初めて“旅の依頼”と向き合うことになります。
学院では教えてくれなかった、誰かの生活のための詠唱。
噛んでも届く声と、噛んでも揺るがない信頼。
風の丘で、ノエルはまたひとつ大切なことを知ることになる——そんなお話です。
#POETRY WITCH-言の葉の代償は琴音で払え-
##第1部 言の葉の重み
###第9話 はじめての依頼板
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旅の三日目の朝、街道沿いの小さな町に入った。
名前はカルヴァといった。
丘の上に水車が三基並び、麦の産地として知られているらしい——
とレイが気流情報として教えてくれた。
「麦の産地ということは、パンがおいしいかも」
ノエルが期待を込めて言った。
『それ以外の情報は要らないのですか?』
「あとは、私にもこなせる依頼があれば!」
カルヴァの町の中心部に、掲示板があった。
木の板に、羊皮紙が何枚か貼ってある。
依頼の告知板だった。
アルドが立ち止まって、一枚一枚を読んだ。
ノエルも背伸びして覗き込んだ。
「えっと……『屋根の修繕手伝い』、『迷子の山羊を探す』、『収穫祭の準備手伝い——』あっ」
ノエルが一枚を指差した。
「『風の精霊のご機嫌が悪く、麦畑の風向きが乱れて困っています。詠唱士の方、お心当たりがあれば相談を。謝礼あり』——師匠、これ!」
アルドが読んだ。
レイが肩から覗き込んだ。
「風の精霊か。この辺の風霊は気難しいことで有名だよ」
『有名とは、どの程度のものですか?』
「ボクが百年前に通った時も、すでに偏屈だったよ。すごい、偏屈だったね」
『百年来の偏屈ですか?』
「依頼がうまくいかなかったら、別に返金すればいいだろう」
ノエルが「やってみましょう! 私、やってみたい」と言った。
* * *
依頼主は、町はずれの農家のおじいさんだった。
名前はガッロ。白髪まじりの眉が太く、しかし目は穏やかだった。
「早速、詠唱師さんが来てくださるとは。実はもう三人お願いしたんですが、みなさんお手上げでして」
【どのような状況か、詳しく教えていただけますか】
アルドのノートを読んで、ガッロが頷いた。
「西の丘から吹いてくる風が、ここ一ヶ月ほどおかしくてね。本来なら南西から緩やかに吹くはずなのに、せっかく伸びた麦を、ぐるぐると渦を巻いて、穂を倒してしまうんです。風の精霊が機嫌を損ねているのは間違いないんですが……理由がわからなくて」
「心当たりは、ないんですか?」
そう聞きながら、ノエルは少し考えた。そして、思い当たる原因をあげていく。
「精霊が機嫌を損ねる時って、大抵何か原因がありますよね。誰かが粗末にしたとか、お気に入りの場所が壊れたとか」
「それが……思い当たることがなくて」と、ガッロは言う。
レイが窓枠に止まって言った。
「西の丘に何かあるよ。最近、人の手が入った気配がある」
「西の丘……」ガッロが首を傾けた。
「そういえば先月、息子が丘の古い石を動かして、畑の畔を作り直したと言っていましたが——まさかそれが」
「まさか、ではなくて、それだよ!」レイが即答した。
* * *
西の丘に上った。
確かに、丘の中腹に積み直された石の畔があった。
そこだけ、不自然に整然としていて、まわりの野草の流れと噛み合っていなかった。
ノエルが革張りのノートを開いた。
「風の精霊に、丘の石のことをお詫びして、新しい畔の形を認めてもらう詠唱……それで、第Ⅲ節の讃美をトールへの呼びかけにして——」
アルドが肩越しにノートを覗いて、一箇所に指を置いた。
ノエルがその文節を見た。
「……あ。第Ⅴ節、風霊への真名呼びが古い形式のままだ」
『この地域の風霊は方言が強いので、現代形式の真名では届きにくいかもしれません』
「レイさん、この辺りの風霊の真名、わかりますか? 知っていたら教えてください」
「わかるよ」レイがすぐ言った。「ヴァルタ・セイ・ノース。古い北方語で『丘を渡る細い息』という意味だ」
『覚えられますか?』
「ヴァルタ・セイ・ノース——ヴァルタ・セイ・ノース——大丈夫です!」
* * *
詠唱は、第Ⅰ節から順調だった。
第Ⅱ節——丘の風景の描写。
ノエルの言葉が空気に溶けて、草がざわりと動いた。
第Ⅲ節——トールへの呼びかけ。
遠い空で何かが動く気配があった。
第Ⅳ節——風霊への謝意の表明。
ノエルの声が柔らかくなった。
第Ⅴ節——風霊の真名。
「——ヴァルタ・セイ・ノース、この丘をそなたの庭と呼ぶことを、我、ノエル・ブライトガー——」
アルドの目が、細くなった。
「——ノエル・ブライトガデェン!」
枷が鳴った。
首筋を灼熱が走った。
アルドは顔色を変えずに丘の草に手をついた。
リトシステムのガイダンス音声が、冷たく響いた。
『権限名乗りの不完全な発声を確認。テノア残高に一年と二ヶ月を追加します』
ところが、そこで風が、ぴたりと一瞬凪いだ。
次の瞬間——丘の上を、穏やかな南西の風が吹き抜けた。
ノエルが振り返った。顔が真っ青だった。
「師匠……」
アルドは手を草についたまま、頷いた。
大丈夫だ、という意味で。
『依頼は完遂です。風向きが戻りました』
「でも噛みました……!しかも旅に出て初めての依頼で……!」
『最初からうまくやろうなんて、欲張りというものですよ』
「そういう問題じゃ——」
「風霊が来たよ」
レイが静かに言った。
二人が空を見た。
丘の上を吹き抜ける風の中に、薄く透けるような形があった。
人でも動物でもない——細い糸が幾重にも絡まったような、揺れる輪郭。
ヴァルタ・セイ・ノース。
風霊が、ノエルを見ていた。
ノエルが息を呑んだ。
風霊は何も言わなかった。
ただ、ノエルの髪を、一度だけそっと撫でるように——南西の風が吹いた。
それから、丘を渡って、遠くへ消えた。
しばらく誰も喋らなかった。
レイが言った。
「……謝意は届いていたようだね」
「噛んでいても……?」
「噛んでいてもさ。だって、風向きが変わっただろう?」
ノエルが、ゆっくりと息を吐いた。
アルドはノートを取り出した。
『風霊があの形で姿を現すのは珍しい。真名が正確だったからだと思います』
「レイさんに教えてもらった真名が——」
『事前に真名がわかっていたこともよかったですが、貴女が正確に発音したから、でもありますよ。詠唱が上手く届いたんでしょう』
ノエルが、少し逡巡してから、答えた。
「私の詠唱、噛んでも……ちゃんと精霊には言の葉は届くんですね」
『届く声と、届かない声があります。貴女の声は、噛んでもその気持ちが届くんですよ』
丘の上を、南西の風が流れていた。
麦畑が、柔らかく揺れていた。
* * *
ガッロのおじいさんに報告すると、目を細めて「ありがとうございます」と言って、報酬に加えて、焼きたてのパンを皆に渡してくれた。
「カルヴァのパンです。風霊が機嫌よく吹いた年の麦で作ったもので——今年はしばらく作れなかったんですが、また作れるようになりますね」
ノエルがパンを受け取って、少し泣きそうな顔をした。嬉しかったのだ。
「——絶対、また来ますね!」
ガッロが笑った。
「ええ。お待ちしていますよ」
* * *
町の宿に戻る道で、ノエルは渡されたパンを大事そうに抱えていた。
「師匠」
『はい』
「旅の依頼って、いつもと違いますね」
『どのあたりが、ですか?』
「なんか——その人の生活に、少し触れる感じ。ガッロさんの麦畑とか、風霊の機嫌とか、石の畔を作り直した息子さんとか。いつもの学院の課題とは全然違う」
アルドは歩きながら書いた。
『依頼は、いつも誰かの「困ったこと」を解決することから始まります。その「困っていること」の向こう側に、必ず彼らの生活がある。詠唱はその生活を支え、整えるための道具です——本来はね』
「本来は、って?」
『学院では「技術の証明」として扱われますが、本来は「誰かのための言の葉」です。貴方の詠唱は、最初からそちらに近い位置にある』
ノエルが、パンを抱えたまましばらく歩いた。
「……師匠って、わかりやすく、ノートに書いてくれるんですよね。ありがとうございます。私、頑張ります!」
『ええ、そうしてください。言葉にしないと伝わらないことがありますから』
「学院にいた頃も、こういうこと書いてくれてたら——」
『貴方が来た最初の夜に、書こうとして、やめました』
ノエルが立ち止まって、アルドを見た。
「……なんで、話してくれなかったんですか?」
アルドは少し先に進んで、立ち止まり、そして振り返った。
続けてノートに書き加えた。
『説明するより先に、実際に、聞いて、感じてからの方がいいと思ったので』
「聞く、感じるって……詠唱を、ですか?」
『はい。理屈より先に、貴女の声を聞きたかった。あの夜の研究室で、三十分聞いて——私は思ったのです。貴方はもっと、もっと自由に言の葉を紡ぐべきだとね』
ノエルが、じっとアルドを見た。
それから、パンを一口かじった。
「……おいしい」
アルドは、少し肩の力を抜いた。
『よかったですね』
「師匠も食べます?」
『いただきましょう』
二人は、街道を歩きながらパンを食べた。
レイが上空から「ボクにも寄越せ」と言った。
ノエルが「食べないって言ってたじゃないですか」と返した。
レイが「気が変わった」と言った。
カルヴァの夕空の下、
麦畑が南西の風に揺れていた。
* * *
「風霊は、噛んだ後も彼女の髪を撫でた。
リトシステムによるテノアの加算より、その一吹きの方が
よほど正確な採点だったと思う」
―― アルド、筆談ノートより
初めての依頼は、ノエルにとって“詠唱が誰のためにあるのか”を知る大きな一歩でした。
噛んでしまっても、風霊は彼女の声を受け取り、髪を撫でて去っていく。
その一吹きは、ソフィアの冷たい加算よりもずっと正直で、ずっと優しい評価でした。
そして、アルドの言葉。
「詠唱は誰かの生活を整えるための道具」
——その本質を、ノエルはようやく実感として掴み始めています。
パンを抱えて歩くノエルと、
それを見守るアルドと、
上空から文句を言いながらも結局寄り添うレイ。
三人の旅は、今日も小さな“困った”をほどきながら続いていきます。




