第10話 北の街道の宿
北の街道は、ただ歩くだけでは気づけない静けさを抱えている。
針葉樹の影が長く伸び、風の音が遠くで揺れるだけの道。
そんな中でも、ノエルは転びながらノートを書き、
アルドは淡々と支え、
レイは空から気流の機嫌を読み取っていた。
フォルクの紹介状に導かれ、三人が辿り着くのは
“麦穂亭”という古い宿。
そこで出会うのは、頑固で口が悪い——けれど、どこか温かい元魔術師。
静かな街道の先で、またひとつ縁が繋がる物語です。
カルヴァを出て、三日が経った。
北の街道は、思ったより静かだった。
行き交う旅人は少なく、
道の両脇には背の高い針葉樹が続いていた。
時々、樹の間から山の稜線が見え隠れしていた。
ノエルは歩きながら振り返りノートに何かを書いていた。
歩きながら書くので字が乱れる。
それでも毎日書くと決めたらしく、今日も今日とて鞄からノートを取り出していた。
『歩きながら書いていると、転びますよ』
「大丈夫です、慣れました!」
その三歩後に、ノエルが木の根に躓いた。
アルドが手を伸ばした。
ノエルの腕を掴んで、支えた。
「痛てて……ありがとうございます」
『ほら、ごらんなさい』
「いえ。今のは根っこが悪いんです!」
レイが上空から言った。「慣れたといったそばから、転んだのはお前だぞ」
「レイさんは黙っててください!」
* * *
昼過ぎ、道沿いに小さな石碑があった。
「グレッセ村 二里」
レイが肩に降りてきた。
「若造」
『なんでしょう?』
「フォルクが言っていた、その紹介状の宿は、その村だよ」
アルドはそれを聞いて、歩みを止め、外套の内ポケットから、折り畳まれた紙片を取り出した。
丁寧な字で書かれた一行。
『グレッセ村・「麦穂亭」 ── ヨルン・ランデル宛』
アルドはレイを見た。
『フォルクの知り合い、どんな人か気流で感じて、知っていたりします?』
「ああ、もちろん。元魔術師だよ。今は宿をやっている。頑固で口が悪い。でも料理は悪くないぞ」
『頑固で口が悪い』
「フォルクとは古い友人らしい」
『なるほど……』
ノエルが石碑に書かれた文字を読んで、「行きましょう!」と言った。
* * *
麦穂亭は、村の中心から少し外れた場所にあった。
石造りの古い建物。
看板が少し傾いていた。窓の木枠がところどころ剥げている。
しかし煙突からは煙が上がっていて、中から鍋の音が聞こえた。
ノエルが扉を叩いた。
しばらく間があって、扉が開いた。
がっしりした体格の老人だった。
白髪を短く刈り込んで、腕を組んで立っていた。
眉間に深い皺が刻まれていた。
「……何の用だ」
とても、客商売に向いている感じではない。
ノエルがそっと、紙片を差し出した。
「フォルク先生から、紹介状をいただいてきました。ヨルンさん……ですか?」
老人——ヨルンが紙片を受け取り、眉間に皺を寄せて、書かれた文字目で追った。
読み進めるうち、その眉間の皺が、さらに深くなった。
「……フォルクのやつか」
「はい、お世話になっていた教授で——」
「あの偏屈男が人を寄越すとは珍しい」
ヨルンはアルドを見た。
アルドのノートを見た。
喉元の枷を見た。
「……声が出ないのか」
アルドは頷いた。
「魔術師か」
アルドがノートに書いて差し出した。
『大魔術師の資格があります。今は旅の途中です』
ヨルンはしばらくアルドを見た。
「……入れ」
ヨルンはそう言って、半身になって入り口を開け、建物の中へ招き入れてくれた。
* * *
麦穂亭の食堂は、こじんまりしていた。
テーブルが四つ。
窓からは遠くへ広がる畑が見えた。
ヨルンが椅子を引きながら言った。
「フォルクが紹介状なんぞ書くのは、十五年ぶりだ。前回は私の倅が王都で世話になった時だった」
『フォルクとは長いお付き合いで』
「学院での学生時代は、同期だった。あいつは残って教授になり、私は嫌になってやめた」
ノエルが「やめた、んですか」と聞いた。
「嫌なものは嫌だと思ったからな」ヨルンは短く言った。「今は畑と宿があればいい」
レイが窓枠に降り立った。
ヨルンがそれを見た。
三秒ほど見つめ立ち上がり、それから料理の準備に戻りながら問うた。
「……精霊か」
「ボクはレイ。高位精霊だ」
「そうか」
それだけ、確認して終わり。
ノエルがアルドの袖を引いた。
「師匠、ヨルンさんって動じない方ですね」と小声で言った。
アルドは頷いた。
ノートに小さく書いた。
『元魔術師は、だいたいこういうことには慣れていますよ』
* * *
夕食は、煮込んだ豆のスープと、固いパンと、塩漬けの肉だった。
素朴だったが、量が多かった。
ノエルが「おいしい」と言って、おかわりした。
ヨルンが「腹が減ってるから、うまいんだろ」と言った。
食事の途中、ヨルンがアルドに言った。
「そういえば前に、フォルクの手紙に少し書いてあったな。詠唱士の弟子と旅をしている友人がいる、と。弟子ってのは、その子かい」
ノエルが顔を上げた。
「はい、私です。ノエル・ブライトガーデンといいます」
「詠唱士か」
「……はい。まだランク2で」
「フォルクが書いていた。『規格外の才能があるが、第Ⅶ節で噛む』と」
ノエルが固まった。
「むぅ……。フォルク先生、そんなことまで……!」
『詳細な報告書を書く教授なので』
「で、本当に噛むのか」
「……噛みます」ノエルが小さく言った。
ヨルンは特に反応しなかった。
スープを一口飲んで、言った。
「私の娘も昔、同じ節で噛んでいた」
ノエルが「え?」と言った。
「詠唱士の頃の話だ。権限名乗りで必ずどこか崩れる——声に感情が乗りすぎていた。最終的に直ったが、五年かかった」
「五年……」
「お前は今、何年目だ」
「三年……くらいです」
「まだ二年ある」
ヨルンはそれだけ言って、またスープを飲んだ。
ノエルが、じっとヨルンを見た。
アルドも、静かにヨルンを見た。
「娘さんは今も詠唱士を?」とノエルが聞いた。
「ああ。東の街で中級の仕事をしている」
アルドはノートに書いた。
『……東の街、ですか』
「そうだ。何かあるのか?」
『少し前に、東の街で詠唱士をしているという方の父上に会いました。偶然立ち寄った宿で。宿の主人が、私の元教え子の父親でした』
ヨルンが少し間を置いた。
「......カルヴァの宿か?」
『よくご存じで』
「息子だ。親が、カルヴァで宿をやっている」
食堂が静かになった。
ノエルが目を丸くした。
「えっ......じゃあ、カルヴァのおじいさんと、ヨルンさんが——」
「親子だ」
「す、すごい偶然……!」
「偶然じゃない」
レイが窓枠から静かに言った。
「気流がそういう道を作っている。神霊は、必要な縁を必要な時に繋ぐ——特に、ノエルの旅には」
ヨルンがレイを見た。
それから、また何も言わずスープを飲んだ。
アルドはノートを開いた。
『親御さんも、お元気そうでした』
ヨルンは短く「そうか」と言った。
それだけだったが、眉間の皺が、少しだけ緩んだ気がした。
* * *
夜、ノエルが振り返りノートを書いていた。
「十日目。北の街道を三日歩いた。
グレッセ村の麦穂亭に泊まる。
ヨルンさんという元魔術師のおじいさん。
口が悪いけど悪い人じゃない。
ヨルンさんの娘さんも昔第Ⅶ節で噛んでいたと聞いて、
なんか少し、気が楽になった。
カルヴァのおじいさんとヨルンさんが親子だと判明。
レイさんが『気流が縁を繋ぐ』と言った。
師匠はそれを聞いて、しばらく外を見ていた」
ノエルはペンを止めた。
「——師匠が外を見ている時、何を考えているのか、
私にはまだわからない。
でも、悪いことじゃない顔をしている気がする」
部屋の窓から、夜の針葉樹の森が見えた。
隣の部屋で、アルドがノートに書く音がした。
『テノア残高:63年7ヶ月と2日。』
それから、少し間があって、
『カルヴァとグレッセが繋がった。
レイの言う通り、この旅の縁は——おそらく、まだ続く』
* * *
「偶然じゃない、と精霊は言った。
私には確かめる術がないが——
否定する根拠も、ない」
―― アルド、筆談ノートより
ヨルンという人物は、言葉少なで不器用だけれど、
その一言一言に“魔術師としての年月”が滲んでいた。
ノエルが抱えていた「噛む」という悩みも、
彼の娘の話によって少しだけ軽くなる。
そして、カルヴァの宿の主人とヨルンが親子だったという偶然。
レイはそれを「偶然じゃない」と言い切る。
気流が縁を繋ぐ——
その言葉に、アルドがしばらく外を見ていたのが印象的だった。
ノエルの旅は、ただの修行ではなく、
人と人の生活が静かに結びついていく道のりなのだと
改めて感じさせられる回でした。
次の街道でも、きっとまた新しい縁が待っている。




