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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第87話 マルクの招集

 招集の知らせは、二日後の朝に届いた。


 アルドが廊下を歩いていると、練習場の方からマルクが急ぎ足でやってくるのが見えた。手に一枚の書状を持っている。普段の無表情よりも、少しだけ緊張の色が滲んでいた。書状の封蝋には、王家の紋章が押されている。


「アルド教授」


 声が、丁寧だった。アルドは足を止め、向き直った。


「招集が、来ました。私にも」


 そう言ってから、マルクはわずかに間を置いた。


「……中心戦力として、という指定で」


 その言葉の重さが、廊下の空気に静かに落ちた。

 マルクが認識されている、ということだった。任意節の試みを重ねてきた数か月が、学院上層部の目に、どういう形で映っていたのか——「規定外の力を持つ詠唱士」として記録されていたのかもしれない。

 

 だとすれば、その評価は、ある意味で正確で、ある意味で不正確だった。規定外の力、というより、規定が見ていなかった力——精霊の声に耳を向け始めた、その変化を捉えているのだとしたら。


 アルドは筆談ノートを開いた。


『おめでとうございます』


 マルクがその文字を見た。それから、少し困ったような顔をした。


「……おめでとう、と言われると、少し、困ります」


 正直な言葉だった。アルドはその困惑を、おかしいとは思わなかった。

 期待されることの重みと、まだ手応えのない不安が、同居している人間の正直さだった。


「任意節を試してきたことは、確かです。でも、精霊の声が、本当に聞こえたかどうか——まだ、分からないんです」


 その声には、これまでのマルクにはなかった種類の不安があった。

 実力者として期待されること。中心に立つこと。それをこなせるだけの技術は、自分にある。だが、今回の儀式に必要なのは、技術だけではないかもしれない。そのことを、マルクはすでに分かっていた。廊下の窓から差し込む朝の光の中で、彼の顔には、珍しく迷いの色があった。


「……アルド教授。あなたは私の詠唱を実際、聞いていますよね。最近の私の詠唱について、正直に教えてもらえますか?」


 まっすぐな問いだった。アルドはしばらく考えてから、ペンを走らせた。


『あなたの詠唱は、以前に比べ変わっています』


 マルクが読む。アルドは続けた。


規定ルール通りの精度は、誰よりも高い。そして、任意節を加えてから、精霊の反応が、確かに変わりました』


 最後に一行。


『精霊に声が聞こえているかどうかは、あなた自身が一番よく分かるはずです』


 マルクはその三行を、しばらく見つめていた。それから、小さく息を吐いた。


「……そうですね」


 自分への問いに、自分で答え直したような声だった。


     * * *


 その日の夕方、練習場でノエルがマルクを見かけ、声をかけた。


 マルクは珍しく、練習を途中で止めて休んでいた。

 型を終えた姿勢のまま、ただ空を見上げている。

 夕陽を背に立つその姿は、いつもの端正な詠唱姿とは少し違う——どこか迷っているような、問いかけているような立ち方だった。


「マルクさん、招集来たんですよね」


「ああ」


「私にも、来ました……補欠みたいな感じですけど」


 二人は少しの間、並んで空を見ていた。夕暮れの色が、練習場の石畳を橙に染めている。


「緊張してますか?」


 ノエルが尋ねた。


「……している」


 短い答えだった。

 しかし、マルクにしてはかなり正直な告白だった。

 これまでなら、そういう言葉は出てこなかっただろう。任意節を試し始めてから、風に「よく晴れたな」と話しかけるようになってから、何かが少しずつ緩んでいるのだと感じる。


「私もです」


 ノエルは素直に言った。それから、少し考えてから、続けた。


「お互い、できることをやりましょう」


 シンプルな言葉だった。大きな励ましでも、重い覚悟の言葉でもない。

 ただ、それだけ。

 でも、その一言の潔さが、マルクの表情を、わずかに軽くした。

 マルクは一瞬ノエルを見て、それから視線を戻した。


「……そうだな」


 その声には、先ほどまでの重さが、少しだけ解れていた。


「お前は、精霊の声を聞けるのか?」


「聞けます。というか、聞こえてくるんです、自然と」


「俺は、まだ、はっきりとは……」


「でも」とノエルが言った。「練習場で毎朝、話しかけてるじゃないですか」


 マルクが、少し驚いた顔をした。

 見られていたとは思っていなかったのだろう。


「見てましたよ」とノエルは続けた。「風の精霊の応え方が、ちゃんと変わってましたよ。毎朝、同じ場所で、同じように話しかけてたじゃないですか」


 マルクはしばらく何も言わなかった。

 夕風が、練習場を静かに吹き抜けていった。

 ノエルは答えを急かさなかった。その風を、マルクがどう感じているかを、ただ静かに待っていた。


「そうか……分かった」


 マルクがようやく言った。

 何かが心の中で決まったような、小さな声だった。


 アルドは、少し離れた場所でその様子を見ていた。


 二人の間にある対等さが、いつの間にか、こんな形で育っていたことに、静かな驚きを覚えていた。最初にマルクがノエルに話しかけてきた中庭のあの日から、何かが確かに変わっている。


 任意節を試し始めてから、「聞こえた気がする」と言ってから、ノエルに「急がなくていい」と言われてから——その一つ一つの積み重ねが、今日この二人を、同じ地面に同じ精霊との向き合い方で立たせていた。


「では、十日後」


 マルクはそう言い、短く頭を下げて、練習場を去っていった。

 ノエルはその背中を見送り、ふと隣を見た。


「師匠もいましたか」


 アルドは頷いた。


「なんか、ちょっとだけ、マルクさんが可愛く見えました」


 ノエルがくすくすと笑いながら言った。

 アルドは、その笑い声を聞きながら、筆談ノートを開かなかった。

 この笑いに言葉を重ねる必要は、なかった。


 夕暮れの練習場に、ノエルの可愛らしい笑い声と、遠ざかるマルクの足音だけが残っていた。


     * * *


「中心に立つことと、隅にいることは、

 どちらが正しいということはない。

 ただ、今日の二人は、初めて、同じ地面の上に立って話していた」

―― アルド、練習場の片隅にて

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