第86話 評議会の結論
学院大講堂に、これだけの人数が集まったのは、アルドの記憶にはなかった。
教授陣、研究員、学生、外部から招かれた詠唱士たち——全員が、正装に近い身なりで席についているが見えた。
石作りの壁に響く足音と、押し殺した囁き声が、普段とはまるで違う緊張感を作り出している。
壇上には、いつもと違う硬さを纏ったフォルクが立っていた。
ノエルが隣で小さく身を固くしている。
アルドは無言のまま、その隣に座っていた。
ノエルの手が、膝の上で静かに握りしめられている。緊張が伝わる。
フォルクが書類を広げ、読み上げ始めた。
「複合災害の規模に鑑み、通常規模のグランド・アリアでは対応が不可能と判断。王国内のすべての詠唱士・魔術師に対し、中央広場での合同詠唱への参加を要請します」
一拍置いて、続ける。
「日程は、十日後。場所は、王都中央広場」
講堂内に、ざわめきが広がった。
十日後——準備に与えられた時間の短さに、誰もが息を呑んでいた。
フォルクは表情を変えず、さらに読み続けた。
詠唱士の参加資格、集合場所、装備の指示——その一つ一つが、淡々と告げられていく。
アルドは話を聞きながら、フォルクの声の底にある疲労を感じていた。
三十年前に棄却された提案が、今、緊急事態の形でようやく動き出した。
それをこの場で進行役として読み上げることに、フォルクはどんな感情を持っているのか。その表情からは読み取れなかった。だが、声に揺れはなかった。
三十年間、その意思を守り育ててきたのかもしれないと、アルドは思った。
* * *
大講堂を出た後、副学院長室に立ち寄るよう、メモが手渡されていた。
ヴィナスの執務室を訪れると、彼女は机の前に立ち、一枚の書類を手にしていた。
それは、招集名簿だった。
「アルド教授とノエル・ブライトガーデンの名は、すでに記載されています」
その一言に、ノエルがわずかに目を見張った。
自分たちの名前が、公式の名簿にある。
今まで、学院外の依頼をこなしながら、それでも学院の籍を持つ自分たちが、正式に認識されているという事実だった。
「私個人としては、あなた方の力が、今回の儀式において、重要な役割を果たすと考えています」
ヴィナスの声は、いつも通り平坦だった。だが、その奥に滲む意志は、かつての「規定の番人」とは少し違うものになっていた。
「ただ、私やフォルク以外の学院上層部、そして王家や貴族院評議会の判断基準は、必ずしも、実力や実績だけではありません。残念ながら……」
正直な一言だった。
フォルクが「期待されるとは限らない」と言ったことを、ヴィナスはさらに具体的な形で告げている。
学院籍の年数、規定遵守の詠唱記録、家柄——それらが複雑に絡み合って、配置が決まる。アルドはその言葉の裏に、ヴィナス自身が数十年かけて見てきた不条理の蓄積があることを、静かに感じ取っていた。
「配置がどこでも、私は、いつもどおりやります」
ノエルが即答した。迷いも、怯えも、そこにはなかった。
ヴィナスはその言葉をしばらく受け止め、それから小さく頷いた。
部屋を出ようとしたところで、ヴィナスがもう一言だけ言った。
「ただし——審査委員会が、今回の件で、一つだけ仕事をしました」
振り返ると、ヴィナスは書類に視線を落としたまま続けた。
「あなた方の名を、名簿の上部に記載しました。規定上の根拠ではなく、私の判断で」
廊下に出てから、ノエルが小さく呟いた。
「ヴィナス副学院院長……」
アルドも頷いた。
彼女、ヴィナスは変わった。いや変わったというよりも、というよりも、元々あったものが、やっと表に出てきた、という方が正確かもしれないと思った。十五年間、算定部門で感じ続けてきた違和感が、ようやく動き出している。
* * *
ヴィナスの執務室を辞して後、廊下でフォルクに声をかけられた。
講堂での重い空気が去り、今の彼はいつもの研究室の顔に戻りかけていた。
「再検討委員会の活動は、儀式が終わるまで、一旦中断する。やむを得ない」
一拍の間を置いて、フォルクは続けた。
その声には、苦さと覚悟が、同じ割合で混じっていた。
「お前たちは、十日後、ちゃんと、王都にいてくれ。それだけは、頼みたい」
「頼みたい」という言葉に、アルドは胸の奥が動くのを感じた。フォルクがこの言葉を使うのは、これが初めてだった。命令でも、依頼でもなく、「頼む」と言った。三十年間の沈黙を抱えてきた人物の、真剣な一言だった。再検討委員会も中断される。儀式に向けて、今自分たちにできることをする——その意志が、その短い言葉の中にあった。
ノエルは即座に頷いた。
アルドも、筆談ノートを出すまでもなく、頷いた。
フォルクは短く頷き返し、足早に廊下を歩き去った。
その後ろ姿を、二人はしばらく見送っていた。
* * *
夜、アルドの研究室に戻ると、ふわりとレイの気配が立った。いつも通りの軽やかな存在感で、部屋の隅に漂っている。
「十日あれば、果実の種だって、もう少し育つかもしれない」
アルドは思わず、窓の外を見た。
中庭の片隅に、春の日にあの種を埋めた場所がある。
土の中で、ゆっくりと何かが育っている。
種を埋めたあの日のことを、ノエルとともに思い出した。
「短いような、長いような、不思議な日数だね」
レイの声は、夜の静けさに溶けていった。
評議会の決定。
招集名簿。
再検討委員会の中断。
十日後という日数。
それらが全部、今夜の部屋の中に在った。
だが、レイの一言が、その全部の重さを、ほんのわずかに軽くした。
十日は、種が育つ時間でもある。
世界が動く直前の、最後の静かな時間でもある。
ノエルは今夜、どこかで何かを考えながら眠るのだろう。
アルドも、今夜は長くなると思っていた。
アルドは筆談ノートを開き、何かを書こうとして、書かずに止めた。
書く必要もないほど、今夜は全部がここにあった。
窓の外では、秋の夜風が中庭の木を揺らしていた。
あの植木鉢の土の中で、種が静かに、確かに、何かを準備しているはずだった。
* * *
「十日という時間が、どんな色を持っているのか。
それは、どう使うかで変わる。レイはそれを、果実の種で言った」
―― アルド、夜の研究室にて




