第85話 数百年ぶりの規模
学院に戻ると、廊下の掲示板に新しい貼り紙があった。
墨の色が、まだ乾き切っていない。学院印が押された白い紙に、端正な書体で短い文言が記されている。
「全魔術師/詠唱士および属する教授への通達。王家および評議会より、万象浄化の叙事詩に関する招集令の準備が進められている。詳細は追って通知する」
ノエルはその貼り紙を読み、アルドを見た。アルドも、その文面を静かに見つめていた。招集がかかるとフォルクが言っていた。その通りになろうとしている。
ただし、まだ「準備が進められている」という段階だった。
廊下をいくつかの学生グループが足早に通り抜け、誰もが声を潜めながら話している。既に噂は広まっているらしかった。
* * *
その日の午後、フォルクに呼ばれた。
研究室の書類の山は、あの時よりさらに積み重なっている。
机の上には、新たな資料の束が開かれ、より散らかっていたが、フォルクは書架の前ではなく、今日は椅子に座っていた。その様子だけで、伝える内容の重さが伝わってきた。
「気候学者と地質学者の、合同調査の結果が出た」
フォルクは紙の束から一枚を取り出し、机の上に広げた。
「大地の乾燥と凶作。原因不明の疫病の拡大。長期的な天候不順——季節外れの寒冷化と、各地での暴風雨。そして、地震」
一つ一つ指で示しながら、淡々と続けた。声に乱れがない。
三十年間、この種の重い事実を処理し続けてきた人間の、静かな強さがそこにはあった。
「複数の専門家が、一致した見解を出している。これは、単一の原因による複合災害だ」
ノエルの手が、膝の上でわずかに固まった。
アルドはペンを走らせながら、胸の中で何かが確定していくのを感じていた。
北の村の土、東部の霧の町、昨夜の地震——それらが、全てひとつの根から来ていたのだ。
「規模については――」
フォルクがそこで一拍置いて、続けた。
「記録に残る限り、最も近い前例は、約三百年前の『大地の慟哭』と呼ばれる災害だ」
室内の空気が、一瞬静まった。
「リトシステムが制定された、ちょうど同じ時期の出来事だ」
その一言の重みを、アルドはゆっくりと受け止めた。
三百年前。
リトシステムの制定と、大規模な災害が、同時期に起きていた。
任意節の省略を制度化したあの仕組みが生まれたのと、精霊たちが怯えるほどの何かが大地を揺さぶったのが、同じ時代の出来事だった。
フォルクが三十年前の議事録で確認した「神霊について一行も触れられていない」リトシステムの制定が、こういう災害の只中で行われたのだとすれば——人間は何を失おうとしているかを知りながら、それでも制度を選んだのだろうか。
それとも、知らなかったのだろうか。
偶然だろうか。それとも——そこから先は、まだ言葉にできなかった。
「今の王立魔術学院に、当時と同じ規模の詠唱ができる者は、ほとんどいない」
フォルクは静かに、しかし確実に告げた。
これまでの三十年間、規定の中で問いを抱えてきた人物が、その問いの答えを、今日、最も厳しい形で見せている。
ノエルが静かに口を開いた。
「招集には、私たちも入るんですか?」
「入る。お前たちにも、招集がかかるぞ」
短い答えだった。フォルクはそのまま続けた。
「ただし―—」
一拍置く。
「期待されているとは、限らないがな」
その言葉の正直さが、室内に静かに落ちた。
お世辞もなく、励ましでもなく、ただ事実として告げている。グランド・アリアという大きな舞台において、学院外から来た無名の詠唱士見習いが、どういう扱いを受けるか——フォルクはそれを知っていて、今言っておこうと思ったのだろう。
聴こえの悪い言葉を選ぶことが、この場ではむしろ誠実なのだとアルドも思った。
「分かりました」
ノエルは、即座に答えた。
「行きます」
フォルクが顔を上げ、ノエルを見た。
「期待されなくても、大丈夫です。私は、ただ、精霊たちの声を、聞きに行くだけなので」
その言葉には、強がりの色がなかった。
本当にそう思っているから、そう言っている。
フォルクはしばらく沈黙してのち、小さく頷いた。
「……そうか」
三十年前、規定の見直しを一人で提案して棄却されたあの日から、フォルクはずっとこういう人物を待っていたのかもしれない。
三百年前の災害の中でリトシステムが作られ、三百年後の今、同じ種類の災害がまた来ようとしている。その循環の中に、ノエルが立っている。そのことを、フォルクが今日、どう受け止めているのか、アルドにはまだ読み取れなかった。
* * *
研究室を出て、二人は廊下を歩いた。
秋の光が、廊下の窓から差し込んでいる。
行き交う学生たちの足音が、今日だけはどこか忙しなく感じた。
しばらく歩いてから、ノエルが足を止めた。
「師匠」
声が、少し違った。
「私、今日、初めてちゃんと、怖いって思いました」
廊下の隅で、ノエルは正面を向いたまま言った。アルドは足を止め、隣に立った。
「テラが苦しんでるのも、セレス様が困ってるのも、本当のことです」
自身の言葉を噛みしめてから、続けた。
「だから、怖くても、行きます」
ノエルの覚悟の言葉だった。
アルドは何も書かなかった。
書こうとして、ペンを手に取ったが、何も書かずに静かに戻した。
今のノエルには、言葉より、隣にいることの方が、ずっと必要だった。
言葉が追いつかない種類の感情というものがある。
そうではなく、言葉を使わなくても全部が伝わっている、という瞬間もある。
今がそのどちらなのかは、アルドにも判断がつかなかった。
ただ、動かないでいることが正しいと思った。
二人はそのまま、秋の廊下を並んで歩き続けた。
掲示板の前を通り過ぎるとき、まだ墨の乾き切らない招集の知らせが、窓からの風にわずかに揺れていた。
ノエルはそれを一度だけ見て、視線を前に戻した。足取りは変わらなかった。
* * *
「数百年に一度の災害が、
数百年に一度の詠唱士を、必要としているとしたら——
それは、ただの偶然だろうか。それとも」
―― アルド フォルクの報告を聞いて




