第84話 揺れる大地
夜、アルドが研究室に一人でいると、突然地面が揺れた。
最初はごく微かで、書架の上の書物が小さく音を立てた程度だった。
だが、それはすぐに大きな波動となり、机の上の茶器が震え、インク瓶が転がりかける。アルドは咄嗟に机を押さえ、立ち上がった。
足元から伝わる振動が、単なる地面の揺れというより、何か巨大なものがゆっくりと動いているような、奇妙な重みを持っていた。
体の奥で魔術の流れがふっと沈み、その一瞬だけ、世界の底がわずかに揺らいだような違和感を覚えた。
それは、リトのシステムが反応したのではなく、遠い場所で生まれた波が大地を伝い、その余波だけがアルドの内側に触れたような感覚だった。
揺れは三十秒ほど続いて、静かになった。
廊下の向こうで、学生たちの慌てた声の騒めきが聞こえてくる。
アルドは窓の外を見た。夜空には変わりなく星が瞬いているが、どこか遠くで、土地そのものが息をひそめているような静けさが漂っていた。
ふと、ノエルの部屋に確認しに行こうかとも思ったが、廊下を足早に歩く人の気配からして、怪我人は出ていないようだった。アルドはしばらくの間、窓の外を見つめ続けていた。
* * *
翌朝、早々に副学院長室にアルドとノエルの二人が呼び出された。
ヴィナスは書類を机に広げ、いつも通りの平坦な声で告げた。
「東部の町から、緊急の要請が来ています」
彼女はそのまま、地図の一点を指した。
「この町は、以前訪れた北の村と、比較的近い場所にあります」
二人が漏らさず話を聞いていることを確認して、続ける。
「同じ地脈に位置していると、学院の調査結果は示しています」
ノエルは、その言葉を静かに受け止めていた。
以前、北の村の土が怯えていたこと、「地の底から何かが押し寄せてくる」という感覚を受け取ったこと——その延長線上に、今回の事象が起きている。
「行けますか」と問われる前に、ノエルはもう行くことを、依頼を受けることを決めていたようだった。
* * *
東部の町に着いてみると、辺りはうっすらと霧に包まれていた。
季節外れの霧が、晴れた日にもかかわらず低くたれこめ、町全体を白く覆っている。屋根の輪郭が霞み、通りに出ている人影も、どこか現実感を欠いて見えた。
発生している疫病の症状は、発熱と四肢の痺れ。
先週から三十人以上が床に伏し、今も増え続けているとのことだった。
依頼主の区長が、青い顔で二人を出迎えた。
昨夜の地震の影響か、石畳の一部に細かなひび割れが走っていた。
「北の村と同じ地脈だと聞きました。やはり、関係しているんでしょうか?」
「おそらく、そう思います」
ノエルは短く答えて、町の中央広場へと向かった。
広場の中心に立つと、地面の土の感覚が、足の裏から静かに伝わってくる。
普段の地面とは違う。
それは固く、冷たく、どこか疲れ果てたような感触だった。
ノエルはその場でしゃがみ込み、両手を地面に触れた。
「土霊さん、聞こえますか。私の声が聞こえますか?」
土地の精霊に声をかけるノエル。でも、まったく答えがなかった。
その様子に、しばし考えながら、周囲を見回していた。
「土霊さん、お願いです。応えてください!」
その様子を近くでレイが見つめていた。
霧の向こうをじっと見つめていた。
その目は、何かを“思い出している”ようにも見えた。
「……返事がないですね。なら、真名で呼んだら応えてくれるかな――レイさん、この辺りの土霊の真名、わかりますか? 教えてください!」
「ノア・エクト・イース、昔の言葉で、『東の大地を支える者』だ」
「ありがとう!レイさん」
ノエルは、頭の中でレイから聞いたばかりのこの土地に住まう、土精霊の真名を繰り返し、呼びかけに備えていた。
「土霊『ノア・エクト・イース』、私の声が、聞こえていますか」
詠唱の型を取らない、呼びかけだった。だが期待した返事はなかった。
霧だけが、静かに揺れ周りを濃く包んでいた。
「ノア・エクト・イース、どうか応えてくださいませんか」
再び、真名で呼びかけた時、今度は明確に、でも弱いが暗いイメージの感覚が伝わって来た。それを感じ取り、ノエルは呼びかけを続けた。
「分かります。今、すごく、苦しいんですね……」
声は穏やかで、急かさない。
「無理しなくていいですよ。でも少し、聞かせてくださいませんか。何が、一番、苦しいですか?」
しばらくの沈黙があった。
それから、少しずつ、ほんの少しずつ。
声が届き始めた。
苦痛、圧迫、途切れ、沈む……暗い波が押し寄せる……
地の底で何かが押し寄せ、光が遠のく……
アルドもその静かな揺らぎに似た、弱い、しかし確かな反応が聞こえてきた。
筆談ノートを開き、ペンを走らせる。
『地の底から、何かが押し寄せてくる感覚です。光が薄れていく、という感覚も』
ノエルがそれを読みながら、頷き思案していた。
区長がそっと後ろから覗き込んで、息を呑んだ。
「……苦しい、って、聞こえたんですか?」
アルドは頷いた。
『苦しい、という感情が届きました』
さらに一行。
『長い間、こうなっていたようです。ここ数日で、急に深刻になった様子があります』
ノエルは地面に手を触れたまま、目を閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。霧が、さらに厚みを増したような気がした。
やがて、ノエルはゆっくりと口を開いた。
「ノア・エクト・イース、教えてくれてありがとう。もう少しだけ、耐えてもらえますか」
声は、震えていなかった。
土に手を触れながら、その土の奥に向かって語りかけているような、真剣な声だった。
「近いうちに、大きな儀式があるって、セレス様から聞きました。その時には、ちゃんと、力になります」
そして、続けて願う。
「大精霊テラよ。もし聞きどけてくれるなら、彼らを支えてくださいませ」
土地が、わずかに揺れた。微かな揺れだったが、地震のそれとは違う。何かが、応えているような揺れだった。
霧が、ほんのわずかに薄れた気がする。テノアは加算されなかった——詠唱でない呼びかけだったからだ。
だが、この土地の土霊には言の葉が確かに届いた。
区長が、隣で静かに息を吐くのが聞こえた。
彼には土霊の反応は見えていないかもしれない。
けれど、霧が薄れていくその状況は、見て分かっただろう。
* * *
帰路、街道を二人と一羽で歩いていた。
霧は晴れ始め、午後の光がまばらに差してきている。
秋らしく乾いた風が、草を揺らしていた。
ノエルが、これまでより少し低い声で言った。
「グランド・アリアって、いつ、行われるんでしょうか」
アルドは筆談ノートを開きかけたが、ノエルは続けた。
「早くその機会が来てほしいような、でも来てほしくないような、変な気持ちです」
しばらく間があって、彼女はもう一言だけ言った。
「うまくできるか、不安です」
これまでのノエルからは、聞いたことのない言葉だった。
規定の枠に抗いながら、審査委員会をくぐり抜け、聖女と呼ばれても揺れなかった彼女が、初めて、正直な不安を口にした。
声には弱さではなく、なにかに備えている人間だけが持てる真剣さがあった。
アルドはペンを取り、ひと言書いた。
『あなたなら、大丈夫です』
ノエルがその文字を読む。アルドは続けて書いた。
『明確な根拠はありません。ただ、そう思います』
ノエルはその言葉を、しばらく見つめていた。
それから、小さく笑った。
「……根拠なくても、なんか、大丈夫な気がしてきました」
秋の光の中、二人の足音が、変わりない速さで続いていった。
レイはそれを、そばを飛びながら見守っていた。
* * *
「世界が揺れるとき、人もまた、揺れる。
彼女の不安は、世界の不安と、
同じ深さから来ているのかもしれない」
―― アルド、帰路の街道にて




