第83話 報告書の山と、フォルクの見解
学院に戻ると、廊下の空気が、出かける前と違っていた。
学生たちの動きが、どこか慌ただしい。
すれ違う教員の顔にも、普段とは違う緊張が滲んでいた。
廊下を行き交う足音は速く、そこで交わされる声のトーンはすごく低い。
このように慌ただしい状況に変わったのは、王都に出かけていた数日の間だったらしかった。
フォルクの研究室に向かうと、扉が開けっ放しになっていて、中が見える。
書類の山が、床にまであふれていた。
これまで何度か訪れてきたあの部屋が、今日だけでまるで別の場所に変わってしまったかのような有様だった。
机の上はもちろん、椅子の上にも、窓の台にも、積み上げられた紙束が並んでいる。
フォルクは書架の前に立ち、届いたばかりらしい書類を一枚ずつ確認していた。
「戻ったか」
振り返りもせずに言った。
「座れ。椅子の上の書類は、床にでも置いてくれていい」
フォルクらしい出迎え方だった。
ノエルがそっと椅子の書類を脇に避け、二人は腰を下ろした。
フォルクは束から一枚の紙を探し出すと、机の上に広げた。
それは、各地の地名が印された地図だった。
赤い印が、いくつもいくつも、地図の各所に書き込まれている。
「最初は、個別の事案だと思っていた。だが――」
フォルクはそこで言葉を切り、地図の上を指でなぞった。
「王都近郊の作物の不作。北の方角の井戸の枯渇。東の港街での原因不明の病。それぞれは別々に見えたが、先週の時点でこの分布になった」
印の広がりは、王都を中心に、放射状に伸びていた。
偶然の集積とは思えない、何らかの意思を感じる、そんな構造を持った分布だった。
「先週、緊急評議会が開かれたのは知っているか。王家がすでに対応を検討している」
ノエルが、地図を見つめながら口を開いた。
「それって、『万象浄化の叙事詩』のことですか?」
フォルクが顔を上げ、ノエルを見た。
先に言われたことに、驚きを隠せない様子だった。
「なぜ、それを?」
「この間、セレス様から、聞きました。直接」
ノエルは静かに、しかし真っ直ぐに言った。
「街道で、祠の前で。私の名前を、呼んでくれました」
室内に、短い沈黙が落ちた。
フォルクは額に手を当てて、参ったなという様子でしばし、考えをまとめてから、ゆっくりと頷いた。
「……そうか。神霊側も、すでに動いているということか」
その声には、驚きよりも、深い確認の色があった。
三十年、規定の中で問いを抱え続けてきた人物が、神霊と人間の動きがついに一点で交差したことを、静かに受け止めているようだった。
* * *
フォルクは椅子に座り直し、両手を組んで机の上に置いた。
そして、静かに語り始めた。
「グランド・アリアのことで、最近わかったことがある。それを説明しよう」
アルドは筆談ノートを手に取り、そのすべてを余さず書き留める準備をした。
ノエルは自然と背筋を正して、聞き入った。
「本来、グランド・アリアは、もっと頻繁に、もっと大きな効果をもたらすべき儀式だった」
フォルクの声は、静かな語り口だった。
だが、ひと言ひと言に、三十年分の蓄積された重みのような、深さが滲んでいた。
「リトシステムが制定されて以来、任意節やら冗長なものと判断された詠唱節が、徐々に省略され、詠唱の形式が短縮、縮小され続けた。それにより儀式としての効果は年々小さくなっている。精霊たちが十全に応えられなくなっているのは、そのためだ」
ひと呼吸おいてフォルクは続けた。
「人間は任意節と呼んだが、しかし神霊にとってそれは、力を増すための詠唱節ではない。『誰が』『どんな願いで』『何を守りたいのか』を伝えるための言葉だった。ここが重要なところだ。我々はその大切な部分を効率化、簡略化の下に削ぎ落としてしまった——だから、神霊はいつも応えようとしてくれていた。けれど願いとしての『声」が届いても、その声に込められた『想い』までは伝わらないんだ」
アルドはペンを走らせながら、胸の中で何かがつながっていくのを感じていた。旅の間に見てきた精霊たちの反応、ヴィナスの十五年、フォルクの三十年、そして北の村で感じた土の怯え。すべてが、この一点に集約されていく。
リトシステムという制度が、神霊としての数多の神々や、精霊との関係を少しずつ削いでいった三百年の果てに、今の状況がある。それをフォルクは今日、はっきりと口にした。
「だが、今回の災害は――おそらく、数百年ぶりの規模だ」
地図の上の赤い印が、静かに光って見えた。
気のせいだと、アルドは思った。
「現代のリトの制約下で成立する最小限の縮小された『グランド・アリア』の魔術行使では、到底、その規模の浄化には対応できないだろう」
フォルクはそこで一度、深く息を吐いた。
「お前たちにも、招集が来るはずだ」
ノエルは頷いた。迷いなく、すぐに。
「セレス様にも、頼まれました。招集が下ったら、私は迷わず行きます」
「相変わらず、まっすぐだな」
フォルクはその熱意に満ちた答えに、静かに応えた。
その瞳に映るのは、叱責でも皮肉でもなく、ただ、ありのままを受け入れているようだった。
* * *
フォルクの部屋を辞して、アルドの研究室に戻ると、夕陽が窓から斜めに差し込んでいた。大分時間が経過していたようだ。
ノエルはフォルクから聞いた話を、改めて自分の中で整理するように、しばらく無言でいた。アルドも、筆談ノートを開いたまま、何も書かずにいた。
書くべき言葉が、多すぎた。整理すべき事柄も。
傍らに、ふわりとレイの気配が立った。
いつも通りの、軽やかな存在感だった。けれども、その軽やかさの奥に、今日だけは確かな重みが宿っているような気がした。
アルドはノートにペンを走らせた。
『私たちに、何ができるでしょうか』
レイはしばらく、その一行を見ていた。それから、静かに答えた。
「お前たちにできることは、いつもと同じだよ」
窓の外で、夕風が木々を揺らした。
「ノエルが詠唱して、お前が隣にいる。それだけだ」
ノエルがその言葉を聞いて、口元を緩めた。
「ただ、今度の舞台は、少しだけ、大きいだけだ」
その一言に、室内の緊張が、静かに、しかし確かに和らいだ。
数百年ぶりの規模、「万象浄化の叙事詩」。
神霊自らのノエルへの魔術詠唱行使の要請——それらすべてを、レイはただ「いつもと同じの延長」として置いた。煽るでもなく、矮小化するでもなく、ただ淡々と。
アルドはもうひと言、ノートに書き加えた。
『分かりました』
それを書いて、ある覚悟と共にページを静かに閉じた。
数百年ぶりの規模の災害と、縮小されたグランド・アリアと、神霊の要請と——それらすべてが重なっても、レイは「いつもと同じ」と言った。その言葉を、今夜はそのまま受け取ることにした。
ノエルが窓の外の夕陽を見ながら言った。
「師匠、怖いですか?」
アルドは少し考えてから、首を横に振った。
「私も、自分でも驚くくらい、そんなに怖くないんです」
ノエルはそう言ってから、少し照れたように付け加えた。
「なんでか分からないんですけど」
アルドは筆談ノートを開き、一行だけ書いた。
『レイが、いつもと同じと言ったからだと思います』
ノエルはその言葉を読んで、頷いた。
それ以上の説明は、二人の間には、今、必要なかったのだった。
* * *
「報告書の山が、世界の悲鳴の束だとしたら、
私たちはまだ、その悲鳴の大きさを、正確には知らない。
ただ、知らないままでも、隣にいることはできる」
―― アルド、その夜のノートより




