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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第82話 神霊に名を呼ばれる

 王都から学院へ帰る街道は、夏の終わりの気配に染まっていた。

 日差しは依然として強いが、風から感じる温度が変わり始めている。


 道沿いの草が、ほんの少し、秋の色を滲ませていた。


 ノエルはどこか上の空で歩いていた。


 昨日の水路のことを考えているのか、あるいはカルヴェンの「事実として認める」という言葉を何度も反芻しているのか、いつもより口数が少ない。


 アルドも無言のまま並んで歩いていた。

 筆談ノートを開くこともなかった。

 ただ街道を踏みしめる音だけが、二人の間に続いていた。


 街道が少し開けた場所に差しかかったとき、道沿いの木立の陰に、古い祠があった。


 苔が石の隙間を覆い、長い年月の重みがそのまま形になったような小さな祠だった。正面には、くすんだ銀色の装飾が施されており、土台の石には古い文字が刻まれている。


 祠に近づくと、その文字がセレスの古い讃美歌の一節であることがわかった。

 管理する者もなく、ただ長い時間をそこに在り続けてきた祠だった。


「……この場所、なんか、感じます」


 ノエルが足を止めた。


 アルドも足を止めた。

 魔術的な感覚で、これまでとは全く異なる気配を感じ始めていた。


 その気配はいつもの精霊の感じではなく、もっと深い場所から来るような、静かな、しかし確かな波動だった。


 そう。これまで感知してきた精霊たちの気配とも、さらに言えばレイの存在感とも違う。もっと根源的な、遠い場所から届いているような重みがあった。


 ノエルは祠に近づき、その前で自然に膝をついた。手を合わせながら、目を閉じる。


 沈黙が、辺りを包んだ。


 そして、声が届いた。


 声というより、光に近いものだった。

 音ではなく、意味が直接流れ込んでくるような感覚。


 アルドはその気配に注意を向ける。そして、その相手の意識の一端を感じた。

 けれど、声は明らかにノエルに向けられていた。


 『ノエル』


 ノエルの肩が、わずかに揺れた。名前を呼ばれた瞬間の、静かな驚きだった。


 『そう、あなたの名を呼んだ』


 声は続く。穏やかで、深く、どこか疲れているような響きがあった。


 『長い間、待っていた。慈雨を任せられる詠唱士を。今、ようやく、あなたに出会えた』


 ノエルは目を開けなかった。だが、その表情が、じわりと和らいでいく。


 『土地が、弱っている。大地が、怯えている。私の力だけでは、もう、支えきれない』


 その言葉に、アルドの胸が鈍く締まった気がした。

 かつて北の村で感じた土の怯え。精霊が応えなかった沈黙。レイの「大地の下で大きな歪みが始まっている」という言葉。それらが今、神霊自身の口から、はっきりと確認された。精霊が感じていた恐れの正体が、この声の奥に静かに横たわっていた。


 『あなたに、頼みがある』


 ノエルは、静かに聞いていた。


 『近いうちに、王都から、招集が来るだろう。大きな儀式の招集が』


 風が、木立を揺らした。

 草の匂いと、祠の石の匂いが、静かに混じり合っている。


 『その時、あなたの詠唱を、聞かせてほしい。あなただけの言葉で』


 長い沈黙があった。


 ノエルは目を開け、祠を見つめていた。

 それから、まっすぐな声でひと言、答えた。


「分かりました」


 その言葉には、迷いがなかった。

 考えるより先に反射的に出た言葉ではなく、深い、心から出た言葉だった。


 規定ルールがどうとか、自分に何ができるかとか、そういうことを一瞬も考えた様子がなかった。ただ、聞いて、素直に答えた。


 『ありがとう』


 その声には、これまでの長い沈黙の重みが溶けているような、深い安堵があった。


 そして、声はもう一言だけ続いた。


 『あなたの師にも、伝えてほしい。長い間、よく耐えた、と』


 その瞬間、アルドの中で何かが、静かに崩れた。崩れた、というより、長い間強張っていたものが、ゆっくりと緩んでいった。三年近く、声を失い、テノアを背負い、何も声を発しないまま歩き続けてきた時間が、今、神霊から見られていたことを知った。

 

 見られていた。知られていた。孤独だと思っていた歩みに、ずっと目が向けられていた。それだけだった。それだけで、十分だった。


 アルドはペンを手に取ろうとして、止めた。

 今は何も書かない方がいいと思った。

 書いてしまったら、この感覚が薄れる気がした。


 ノエルが顔を上げ、祠の石の表面をそっと撫でた。


「セレス様、ずっとここで、待ってたんですね」


 声が、わずかに震えていた。


「ありがとうございます。お話、聞かせてもらえて」


 それから、深く一礼して、静かに言い添えた。


「招集が来たら、ちゃんと、行きます」


 祠は、もう何も答えなかった。

 けれど、場の空気が、さっきとは違う種類の静けさに満ちていた。

 何かが届いた後の、満たされた静けさだった。


     * * *


 祠を後にして、二人はまた街道を歩き始めた。

 夕陽が斜めになり、草の影が長く伸びている。

 木立の向こうに、学院の塔がかすかに見え始めていた。


 しばらくして、ノエルがアルドを見た。


「『長い間、よく耐えた』って、私にじゃなくて、師匠に向けられた言葉、ですよね」


 アルドは頷いた。


「セレス様も、ちゃんと見てたんですね。師匠のこと」


 その声は、責めるでもなく、あわれむでもなく、ただ静かに確認するような口調だった。そしてその言葉の奥に、彼女がずっとアルドのことを気にかけていたことが、静かに滲んでいた。


 アルドは何も書かなかった。

 書こうとして、ペンを手に取って、それから静かに戻した。

 いや、書けなかったのではない。書く言葉が、今夜はもう全部、胸の中にあった。


「……師匠が、ちゃんと隣にいてくれてよかったです」


 ノエルが、しばらく歩いてから、ぽつりと言った。


「あの声が聞こえたとき、師匠もいっしょに感じてくれてたのが、わかったので」


 アルドは前を向いたまま、頷いた。


 夕陽が街道を橙色に染め、二人の足音が、変わりない速さで続いていった。

 この夕暮れの色も、草の匂いも、全部このまま覚えていたいと、アルドは思った。


     * * *


「名を呼ばれるということは、

 ただ知られているということ以上の、何かを意味する。

 今日、彼女は名を呼ばれた。

 そして、私は、見られていたことを知った」

―― アルド、夕暮れの街道にて

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