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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第81話 規定(ルール)通りの結果

 夕暮れ近く、王都の水路沿いを歩いていると、騒ぎに出くわした。


 幅一間ほどの水路が、土砂で半分以上塞がれている。

上流で起きた崩落の影響らしく、詰まった土砂が水を堰き止め、水路沿いの低い土地に向けて溢れ出し始めていた。近くの民家の床下に、茶色い水が迫っている。


 水路のそばに、三人の詠唱士がいた。その中に、カルヴェンがいた。

 昨日の大通りで会ったときと違い、今日は正式な詠唱士の外套を纏っている。

 他の二人とともに、すでに規定の詠唱を試みていた様子だった。


「……効いていない」


 カルヴェンが苦い顔で呟いた。傍らの同僚が、ノエルたちの姿を見て言った。


「くそっ。なんで動かないんだ。詠唱は完璧なのにっ!」


 その言葉には、焦りと困惑が滲んでいた。土砂の規模に対して、規定通りの詠唱が全く歯が立たなかった事実だけが、そこにあった。


 カルヴェンがノエルを見た。昨日のやりとりの余韻がまだ残っているような、複雑な顔だった。それでも、民家の床下に水が増していくのを見て、彼は口を開いた。


「……お前に、何ができる」


 藁にもすがるような声だった。

 プライドがその言い方をかろうじて繕っていたが、本質は切実な問いだった。


 アルドはノエルを見た。

 ノエルはアルドを見た。

 アルドは静かに頷いた。


     * * *


 ノエルは水路のそばにしゃがみ込み、流れに手を触れた。

 土砂の匂いと、濁った水の冷たさが、指先に伝わってくる。

 詰まった土砂の奥に、本来この水路を流れるはずだった精霊の気配が、薄く、息をひそめているのが感じられた。


「この水路に宿りし、流れの精霊よ

 水の道を護り、命の潤いを運ぶ御方よ

 今この時、御身の声に、耳を傾けん」


 古い呼びかけの節だった。規定の型を骨格に持ちながら、そこに彼女自身の言葉が、ごく自然な形で混じり込んでいく。


「水の精霊、聞こえていますか」


 型が崩れ、口語に移る。だが、声は静かで、慌てていない。


「土砂で、苦しいですよね。誰か、聞いてくれましたか」


 水面が、わずかに揺れた。アルドはその変化を、息を詰めて感じていた。精霊が、そこにいる。ただ、塞がれていただけだった。カルヴェンたちの規定通りの詠唱は、精霊に届いていなかったのではなく、精霊が動けない状態に置かれていたのだ。


「いつも、この水路を流れてくれて、ありがとうございます」


 ノエルの声が、さらに温かくなる。


「今日は、ちょっと困ってると思いますが、私に手伝わせてください」


 それから、型が再び詩へと戻っていく。声の調子が変わった。


「流れよ、眠りから目覚めよ、

 塞ぐ土砂に、目を向けよ。

 我が声を道標に、その身を解き放て。


 水よ、再び、本来の道を歩め。


 大精霊ルナの御名のもとに、

 ノエル・ブライトガーデンが命ず。

 この水路に、命の流れを、取り戻さんと願う」


 首元の枷が、低く震えた。


『詠唱の延長:三節超過。テノアに二週間を追加します』


 その合成音と同時に、土砂が動き始めた。


 静かに、しかし確実に。

 詰まっていた土砂の塊が、内側から少しずつ崩れ、水の通り道が開いていく。

 流れが戻るにつれて、民家の床下へと溢れていた水の勢いが、みるみると落ちていった。水路沿いの住人たちの間に、どよめきと歓声が上がる。


 カルヴェンは、その光景をただ見ていた。

 同僚も、隣で言葉を失ったまま立ち尽くしていた。


     * * *


 水が戻り、人々が礼を言い、その場が落ち着いてから、カルヴェンがノエルに近づいてきた。


「……どうやったんだ」


 声は低かった。


「精霊に、尋ねただけです」


 ノエルは事も無げに答えた。


規定ルールの詠唱が届かなかったのは、精霊が動けない状態にあったからだと思います。先に、精霊の状態を確かめてから、手伝わせてほしいと伝えると、動いてくれました」


 カルヴェンは少し間を置いてから、今度は同僚に向き直った。


「カルヴェン、規定ルール通りにやって、何も起きなかったよな、俺たちは」


 同僚の言葉は、確認というより、自分自身に言い聞かせているようだった。

 カルヴェンは頷いた。それから、歩き出す前に、ノエルの方を向いた。


規定ルール外の詠唱が、規定ルール通りの詠唱より、結果を出した。それは――事実として、認める」


 その声には、昨日の大通りのさらりとした刃はなかった。重く、素直な一言だった。


「ただ、なんでそうなるのか、俺には、まだ分からない」


 ノエルは頷いた。それから、柔らかく言った。


「分からなくても、いいと思います」


 カルヴェンが、視線を向けてくる。


「分かろうとし始めたら、それで十分な気がします」


 カルヴェンは何も言わなかった。


 けれど、その瞳には、昨日とはまた違う何かがあった。

 完全に扉が開いたわけではない。

 ただ、扉に手がかかった、という感じだった。


 彼は短く会釈して、同僚とともに水路の処理に戻っていった。


 水路沿いの住民が数人、ノエルに礼を言いに来て、ノエルは少し照れながら頭を下げていた。


 夕暮れの光が、水路の流れを橙色に染めている。

 土砂が動いて水が戻ったばかりのその水面は、さっきまでとは全く違う顔をして夕日を反射して輝いていた。


 アルドはその背中を見送りながら、胸の中で静かに思った。

 規定ルールが正しいと信じてきた人間にとって、規定ルールの外で起きたことを認めることは、簡単なことではない。


 カルヴェンが今日の出来事を、帰ってからどう処理するのかは、まだわからない。

 そのまま扉を閉じるかもしれない。

 あるいは、その隙間から何かが差し込んでくるかもしれない。

 それでも今日、カルヴェンは、一歩だけ、扉に手をかけた。


 ノエルが戻ってきて、アルドの隣に並んだ。


「師匠、テノア加算でしたね。ごめんなさい」


 アルドは首を横に振った。ノエルは少し視線を落としてから、それでも顔を上げた。


「でも、土砂が動いて、水路が元の流れに戻ったのは、本当によかったです」


 その言葉に嘘はなかった。

 テノアの代償と、目の前の民家が守られたことが、彼女の中では等価だった。


 アルドはノートを開き、一行書いた。


『私も、そう思います』


 ノエルは小さく笑い、二人は並んで宿への道を歩き始めた。

 夕陽が水路の水面に長く伸び、二人の足音が石畳に静かに響いていった。


     * * *


規定ルールが正しいと信じてきた人間にとって、

 規定ルールの外で起きたことを認めるのは、簡単なことではない。

 それでも今日、カルヴェンは、一歩だけ、扉に手をかけた」

―― アルド、王都の水路のそばにて

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