第80話 カルヴェンの事情
王都の大通りは、夏の終わりの光に満ちていた。
石畳の上に、屋台の日除け布の影が長く伸びている。
日の当たる場所は、まだまだ汗ばむ陽気だった。
また、石畳からの日差しの反射が、目に痛い白さだった。
フォルクからの頼みで書類を受け取りに来たついでに、アルドとノエルは大通りをぶらぶらと歩いていた。
学院を出てこういう場所に立つのは久しぶりで、ノエルは屋台の香ばしい匂いにいちいち立ち止まりながら、楽しそうにあたりに視線を配っていた。
焼きたての菓子を一つ買い、頬張りながら楽しそうに歩く姿は、あの旅の日と少しも変わっていない。
そのとき、人込みの中から、不意に声がかかった。
「ノエル・ブライトガーデン?」
振り返ると、二十代前半ほどの青年が立っていた。学院の制服に似た、上級生の装いをしている。その顔に、ノエルはすぐに見覚えがあるようだった。表情が、わずかに固まる。
カルヴェンだった。去年の秋、選抜に落ちたノエルに廊下で声をかけてきた、あの上級生。
「久しぶりだね。王都で会うとは」
その声は、友好的な響きを装っていた。
だが、アルドは注意深くその目を見ていた。
親しみというより、何かを確かめようとしているような、そんな光が瞳に込められている気がした。
* * *
三人は屋台の脇に避け、立ち話になった。
カルヴェンは、去年の秋から変わったこと、王都の詠唱士組合での研修のこと、学院の近況など、当たり障りのない話題を続けた。
ノエルは穏やかに相槌を打ちながら、それでも警戒の糸を完全には緩めていないようだった。アルドは少し後ろに引いた位置で、二人の会話の行方を静かに見守っていた。
しばらくして、カルヴェンの口調が、わずかに変わった。
「ところで、卒業審査委員会の話、学院中に広まってるけど……」
声の調子は変わらない。だが、その中に好意以外の何かが滲んだ。
「リトシステムの規定を守れない詠唱士が、学院に籍を置き続けることを、俺は個人的には、どうかと思うけどね」
笑みを浮かべたまま、さらりと言った。友人に世間話をするような口調で、しかし言葉の刃は確かにそこにあった。
アルドは筆談ノートに手をかけた。
だが、ノエルはそっと片手で静かに制してそれを止めると、先に答えた。
「でも、神霊が一度も機嫌を損ねたり、怒らなかったのは、事実です。むしろ、喜んでいたと、師匠が証言しています」
声は静かだった。怒りではなく、ただ事実を述べるような口調だった。
「規定通りかどうかを、精霊は判断材料にしていないみたいなので」
ノエルはそう続けてから、少し間を置いた。それから、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「精霊をはじめとした神霊は、詠唱の言の葉を短く自慢できることなんかじゃ、その願いに応えるかどうかを決めないんだと思います」
その一言に、カルヴェンの顔に張り付いた笑みが、わずかに揺れた。
何かを言おうとして、それを飲み込んだような間があった。
アルドはノートに手をかけたまま、何も書けなかった。いや、書く必要がなかった。ノエルは、もう自分の言葉を持っている。
カルヴェンは視線をノエルからアルドへ、そしてまたノエルへと移して、それから言った。
「……あなたは、変わりましたね」
その声には、かすかに本物の感慨が混じっていた。
「旅の間に、色々、教えてもらったので」
ノエルはそう答えて、柔らかく笑いながら、アルドを見た。
師匠とは名言せず、でもその素振りが代わりに、「誰に教えてもらったのか」という答えが伝わる言い方を選んでいた。
アルドはその一言に、この数か月のすべてが静かに詰まっているのを感じた。
カルヴェンはそれ以上何も言わず、居心地悪そうに会釈して、人込みの中へ消えていった。
その背中を、アルドはしばらく目で追っていた。
去年の秋、あの廊下の言葉は、カルヴェン自身にとって何だったのだろうか。
正しいと思って言った言葉が、今日、自分に返ってきた。それを彼がどう受け取ったかは、まだわからなかった。
* * *
大通りの人込みを抜けて、少し広い場所に出た。
屋台の影が遠くなり、夏の午後の光が真っ直ぐに二人の上に降り注いでいた。
ノエルはしばらく何も言わず歩いていたが、やがてふと、こちらを見た。
「師匠、私、怒ってると思いました?」
アルドは首を横に振った。ノエルは頷き、少し遠くを見るような目をした。
「私、怒ってないですよ」
それから、正直に言うように、続けた。
「でも、かわいそうだな、って思いました」
石畳の上を、二人の影が並んで伸びている。
「神霊が何を喜ぶか、知らないまま詠唱してるのって、なんか、もったいないな、って」
その声には、悲しみも軽蔑もなかった。
ただ、静かな哀れみだけが滲んでいた。
かつてノエルが「かわいそうですね、規定って」と言ったとき、アルドはその言葉の選び方に驚いた。
今日、それと同じ種類の言葉が、人間に向けられた。
怒りでも傷でもなく、哀れみという形に変わっている。
相手を傷つけようとした言葉の刃が、相手に届かずもうその力を失っていた。
アルドはその横顔を、しばらく黙って見ていた。
神霊に向ける目と、カルヴェンに向けた目が、同じ種類の温かさを持っていた。
侮蔑——いや嫉妬だろうか。それらの言葉が哀れみへと変わる過程で、彼女の中で何かが大きく育ったのだということが、今日、はっきりとわかった。
アルドは筆談ノートを開き、ひと言告げた。
『成長しましたね』
ノエルは照れたように笑い、少し足を速めた。
「師匠にそう言ってもらえると、なんか、ちゃんと旅で修行ができた気がしますね」
夏の終わりの光の中で、二人の足音が、石畳の上をゆっくりと刻んでいった。
屋台の喧騒が後ろへ遠ざかり、風が石畳を渡っていく。
カルヴェンの「「……あなたは、変わりましたね」」という言葉が、まだどこかに残っているような気がした。
変わった、というのは確かに正しい。
けれど、変わったのではなく、もとからそういう人間だったものが、あの旅の中で言葉と形を与えられただけなのかもしれない、とアルドは思っていた。
* * *
「侮蔑や嫉妬、それらの傷ついた言葉は、
時間が経つと、別の形に変わることがある。
それが怒りではなく、哀れみになったとき、
その言葉はもう、彼女を傷つけることができなくなっていた」
―― アルド、王都の大通りにて




