第79話 覗くな事件
アルドが研究室に戻ると、扉の前にレイが立っていた。
いや、正確には、扉の前に立っていたのではない。
扉の内側に閂を閉めようとしている気配があった。
「あ、来た来た。ちょうどいい。入ってくるな」
扉越しに、レイの声がする。
「実験だよ。邪魔するな。いいか、絶対覗くなよ」
入ってくるな、と言われたので、アルドは廊下で立ち止まった。
筆談ノートを出そうとして、相手が扉の向こうにいることに気づき、それをしまい込む。代わりに、扉を三回、静かに叩いた。
「聞こえてる。それでも、入ってくるな。二時間は待て」
そういうことならば、と廊下のベンチに腰を下ろす。
折しも廊下の向こうからノエルが小走りに近づいてきた。
「あ、師匠。研究室、入れないんですか?」
アルドが頷くと、ノエルはなるほどという顔をして、隣に腰を下ろした。
「レイさんですよね。私も昨日、『近づくな。来るな。覗くな。……いや、ほんとに覗くなよ?』って言われました」
二人は並んで、廊下のベンチに座った。
夏の午後の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
学院内を行き来する他の教授や学生たちが、廊下で並んで座るアルドとノエルを奇妙そうな目で見ていったが、二人は気にしなかった。
ノエルは膝の上に手帳を乗せ、写本作業の続きを始めた。
アルドは研究ノートを開いたまま、ほとんど何も書かなかった。
扉の向こうから、時折、何かが煮立つような気配や、レイの低い独り言がかすかに漏れてくる。
「レイさんって、あんまり疲れた顔しないですよね。なので、さっきの顔、ちょっとびっくりしました。何してるんだろう?」
ノエルが手帳から目を上げずに言った。アルドは頷いた。
一時間が過ぎた。
扉が、ゆっくりと開いた。
「入れ」
レイが、ぐったりとした様子でソファに横たわっていた。
普段の飄々とした雰囲気とは明らかに違う、本当に消耗しきった顔だった。
机の上に、小さな瓶が一本、置かれている。
透明に近い、わずかに青みがかった液体が、瓶の中でゆらゆらと揺れていた。
「忘却の雫だよ」
レイは天井を見つめたまま、言った。
「お前のテノアを、一時的に相殺する。消耗するんだよ、私が。あんまり頻繁には作れない」
アルドは瓶を手に取り、しばらくそれを見つめた。光を通すと、液体の中に細かな光の粒が浮いているのが見えた。
「大国の国家予算一年分くらいの価値があると思えばいい」
ノエルが、思わず「えっ!? そんなに……」と声を上げた。レイは動じない。
「飲め」
アルドはその瓶の栓を、ゆっくりと抜いた。
* * *
飲んだ瞬間、首元の枷が、静かに鳴った。
これまで聞いてきたどの音とも違う。加算でも減算でも判定でもない、何かが外れるような、あるいは長年閉ざされていた扉が開くような、そういう音だった。喉の奥に、これまでに感じたことのなかった何かが、静かに満ちてくる感覚があった。温かさとも、圧力とも違う。ただ、何かが、そこに在る、という感覚。
ノエルが、固唾を呑んでこちらを見ている。レイは天井を向いたまま、目だけでアルドを見ていた。
「あ」
声が、出た。
それだけだった。アルドは自分の口から出た音に、少し驚いて、それからもう一度、確かめるように息を吸った。
「あ」
ノエルの目が、みるみる滲んでいく。
「あ」
「なんで『あ』しか言わないんですか」
ノエルの声が、笑いと涙で半分ずつになっていた。アルドは、しばらく答えなかった。答えたくなかったわけではない。言葉が、見つからなかった。三年ほど、筆談ノートに文字を綴り続けてきたのに、いざ声が出ると、どこから何を言い始めればいいのか、まったくわからなかった。
「…………何を言えばいいか、分からなくて」
ようやく出てきた言葉は、それだった。ノエルは笑いながら泣いていた。目から水が出るとはこういうことか、とアルドはどこか遠くで考えていた。
レイが天井から目線を外し、こちらを見た。
「三年ぶりに声が出て、最初に言うのが『あ』か。お前は相変わらずだな」
呆れとも愛情ともつかない声だった。アルドは、その言葉を受けて、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「ありがとう、レイ」
「どういたしまして」
レイは短くそう答え、また天井を見た。それ以上は何も言わなかった。この消耗の中で、どういたしまして、と言えるのがレイらしかった。
ノエルは、まだ泣き笑いの顔のまま、アルドを見ていた。
「師匠の声、聞けました」
それから、少し首を傾けて、正直な感想を言った。
「なんか、思ってたより、低かったです」
アルドは、声を出して笑おうとして、うまくできなかった。笑い方を忘れていた。それでも、口元が動いた。ノエルはそれを見て、また目から水を落とした。
* * *
二十分が経った。
首元の枷が、また静かに鳴った。先ほどとは逆の音だった。扉が閉まるような音。喉の奥の満ちていた感覚が、引き潮のようにゆっくりと引いていく。
「今日の実験では、持続は二十分だったな」
レイが起き上がり、天井から視線を戻した。
「大事な時のために、覚えておけ」
アルドは頷いた。
「来るよ。必ず」
その一言には、予言のような重みがあった。「いつか」ではなく「必ず」。レイが「必ず」と言うときは、それはもう決まっていることなのだと、アルドは何となく知っていた。「分かった時に、分かる」という含みも、その短い言葉の奥にはあった。
ノエルが「大事な時って、どんな時ですか」と尋ねると、レイは静かに答えた。
「分かった時に、分かる」
それだけだった。ノエルは少し不満そうな顔をしたが、それ以上は問わなかった。
夕方、一人になった研究室で、アルドは筆談ノートを開いた。ペンを手に取り、それから、閉じた。
声が出た日のことを、ここには書かなかった。
でも、体の中のどこかに、その二十分が、ちゃんと刻まれている。それで十分だと思った。
* * *
「声が出た日のことを、ここには書かなかった。
でも、体の中のどこかに、その二十分が、ちゃんと刻まれている。
それで十分だと思った」
―― アルド、その日の夜に




