表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/92

第79話 覗くな事件

 アルドが研究室に戻ると、扉の前にレイが立っていた。


 いや、正確には、扉の前に立っていたのではない。

 扉の内側に閂を閉めようとしている気配があった。


「あ、来た来た。ちょうどいい。入ってくるな」


 扉越しに、レイの声がする。


「実験だよ。邪魔するな。いいか、絶対覗くなよ」


 入ってくるな、と言われたので、アルドは廊下で立ち止まった。

 筆談ノートを出そうとして、相手が扉の向こうにいることに気づき、それをしまい込む。代わりに、扉を三回、静かに叩いた。


「聞こえてる。それでも、入ってくるな。二時間は待て」


 そういうことならば、と廊下のベンチに腰を下ろす。

 折しも廊下の向こうからノエルが小走りに近づいてきた。


「あ、師匠。研究室、入れないんですか?」


 アルドが頷くと、ノエルはなるほどという顔をして、隣に腰を下ろした。


「レイさんですよね。私も昨日、『近づくな。来るな。覗くな。……いや、ほんとに覗くなよ?』って言われました」


 二人は並んで、廊下のベンチに座った。


 夏の午後の光が、窓から斜めに差し込んでいる。

 学院内を行き来する他の教授や学生たちが、廊下で並んで座るアルドとノエルを奇妙そうな目で見ていったが、二人は気にしなかった。


 ノエルは膝の上に手帳を乗せ、写本作業の続きを始めた。

 アルドは研究ノートを開いたまま、ほとんど何も書かなかった。

 扉の向こうから、時折、何かが煮立つような気配や、レイの低い独り言がかすかに漏れてくる。


「レイさんって、あんまり疲れた顔しないですよね。なので、さっきの顔、ちょっとびっくりしました。何してるんだろう?」


 ノエルが手帳から目を上げずに言った。アルドは頷いた。


 一時間が過ぎた。


 扉が、ゆっくりと開いた。


「入れ」


 レイが、ぐったりとした様子でソファに横たわっていた。

 普段の飄々とした雰囲気とは明らかに違う、本当に消耗しきった顔だった。

 机の上に、小さな瓶が一本、置かれている。

 透明に近い、わずかに青みがかった液体が、瓶の中でゆらゆらと揺れていた。


「忘却のレテドロップだよ」


 レイは天井を見つめたまま、言った。


「お前のテノアを、一時的に相殺する。消耗するんだよ、私が。あんまり頻繁には作れない」


 アルドは瓶を手に取り、しばらくそれを見つめた。光を通すと、液体の中に細かな光の粒が浮いているのが見えた。


「大国の国家予算一年分くらいの価値があると思えばいい」


 ノエルが、思わず「えっ!? そんなに……」と声を上げた。レイは動じない。


「飲め」


 アルドはその瓶の栓を、ゆっくりと抜いた。


     * * *


 飲んだ瞬間、首元の枷が、静かに鳴った。


 これまで聞いてきたどの音とも違う。加算でも減算でも判定でもない、何かが外れるような、あるいは長年閉ざされていた扉が開くような、そういう音だった。喉の奥に、これまでに感じたことのなかった何かが、静かに満ちてくる感覚があった。温かさとも、圧力とも違う。ただ、何かが、そこに在る、という感覚。


 ノエルが、固唾を呑んでこちらを見ている。レイは天井を向いたまま、目だけでアルドを見ていた。


「あ」


 声が、出た。


 それだけだった。アルドは自分の口から出た音に、少し驚いて、それからもう一度、確かめるように息を吸った。


「あ」


 ノエルの目が、みるみる滲んでいく。


「あ」


「なんで『あ』しか言わないんですか」


 ノエルの声が、笑いと涙で半分ずつになっていた。アルドは、しばらく答えなかった。答えたくなかったわけではない。言葉が、見つからなかった。三年ほど、筆談ノートに文字を綴り続けてきたのに、いざ声が出ると、どこから何を言い始めればいいのか、まったくわからなかった。


「…………何を言えばいいか、分からなくて」


 ようやく出てきた言葉は、それだった。ノエルは笑いながら泣いていた。目から水が出るとはこういうことか、とアルドはどこか遠くで考えていた。


 レイが天井から目線を外し、こちらを見た。


「三年ぶりに声が出て、最初に言うのが『あ』か。お前は相変わらずだな」


 呆れとも愛情ともつかない声だった。アルドは、その言葉を受けて、少し間を置いてから、静かに口を開いた。


「ありがとう、レイ」


「どういたしまして」


 レイは短くそう答え、また天井を見た。それ以上は何も言わなかった。この消耗の中で、どういたしまして、と言えるのがレイらしかった。


 ノエルは、まだ泣き笑いの顔のまま、アルドを見ていた。


「師匠の声、聞けました」


 それから、少し首を傾けて、正直な感想を言った。


「なんか、思ってたより、低かったです」


 アルドは、声を出して笑おうとして、うまくできなかった。笑い方を忘れていた。それでも、口元が動いた。ノエルはそれを見て、また目から水を落とした。


     * * *


 二十分が経った。


 首元の枷が、また静かに鳴った。先ほどとは逆の音だった。扉が閉まるような音。喉の奥の満ちていた感覚が、引き潮のようにゆっくりと引いていく。


「今日の実験では、持続は二十分だったな」


 レイが起き上がり、天井から視線を戻した。


「大事な時のために、覚えておけ」


 アルドは頷いた。


「来るよ。必ず」


 その一言には、予言のような重みがあった。「いつか」ではなく「必ず」。レイが「必ず」と言うときは、それはもう決まっていることなのだと、アルドは何となく知っていた。「分かった時に、分かる」という含みも、その短い言葉の奥にはあった。


 ノエルが「大事な時って、どんな時ですか」と尋ねると、レイは静かに答えた。


「分かった時に、分かる」


 それだけだった。ノエルは少し不満そうな顔をしたが、それ以上は問わなかった。


 夕方、一人になった研究室で、アルドは筆談ノートを開いた。ペンを手に取り、それから、閉じた。


 声が出た日のことを、ここには書かなかった。


 でも、体の中のどこかに、その二十分が、ちゃんと刻まれている。それで十分だと思った。


     * * *


「声が出た日のことを、ここには書かなかった。

 でも、体の中のどこかに、その二十分が、ちゃんと刻まれている。

 それで十分だと思った」

―― アルド、その日の夜に

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ