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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第76話 聖女、と呼ばれる

 夏の日差しが照りつける町外れの畑に、二人と一羽は降り立った。

 

 再び学院に戻ってから、これが最初の依頼だった。

 畑の畝の間に立つ作物は、葉先が黄ばみ、明らかな病の兆しを見せている。

 蝉の声が、遠くの木立から絶え間なく響いていた。


 依頼主の薬師が、急ぎ足で出迎えてくれた。

 四十代ほどの女性で、王都から来たという商人と取引のある立場らしい。

 日に焼けた腕に、薬草の入った籠を提げている。

 

 彼女はノエルの姿を見るなり、目を見開いた。


「もしかして、あなたが、聖女様と呼ばれている方ですか」


 その問いに、ノエルは慌てて首を振った。

 頬がほんのり赤らんでいる。


「あ、いえ、私はただの詠唱士見習いで……」


 訂正しようとする声は、しかし薬師の興奮の前にあっけなくかき消されてしまった。


「王都でも噂になっているんですよ。学院の聖女様が、精霊の心まで動かしてしまうって」


 薬師は興奮を抑えきれない様子で、両手を胸の前で組みながら続けた。「あちこちの行商人が、口々にあなたの話をしているんです」


 ノエルは困ったように苦笑いを浮かべ、それ以上の訂正を諦めたように、畑の方へと向き直った。


 アルドはその様子を、少し離れた場所から見守っていた。

 王都という言葉の響きに、想像していた以上の広がりを感じ、内心でわずかな緊張を覚えていた。


 ノエルは病に冒された作物の前にしゃがみ込み、

 土に手を触れた。乾いた土の感触を確かめるように、指先をゆっくりと埋めていく。それから、静かに目を閉じ、声を紡ぎ始めた。


「この地に宿りし、土の精霊よ。

 古より、この大地を護り、育みし御方よ。

 今、ここに立つ者の声に、どうか応えたまえ」


「いま、この乾き、病みし土地をふたたび蘇らさんと欲す。

 ただ、御身は疲れ、力果て、その願いに応えること叶わず、

 お休みのところ、謝罪申し上げます」


「大精霊テラよ、土を支え、種を抱き、絶えることなく恵みを巡らせる者よ。

 その尽きせぬ恩寵に、心より感謝を捧げます」


 土地の精霊にはもう力が残っていないと判断し、その上位の精霊を呼び出す。

 規定の型を超えた、彼女自身の言葉だった。

 声は風に乗り、畑全体へと染み渡っていくようだった。

 薬師は息を呑み、ただ見守るしかできずにいた。


「いま、この畑に住まう土の精霊と、この土に宿る命が、病に苦しんでおります。

 どうか、その御手を、お貸しいただけませんでしょうか」


 土の表面が、わずかに脈打つように揺らいだ。だが、ノエルの声はまだ止まらない。


「あなたの想いを、私がもっと深く汲み取れたなら――

 どうか、その声を、私に聞かせてください」


「大精霊テラの名において、ノエル・ブライトガーデンが命ず。

 この地を浄化し、元の豊饒な大地へと還らせたまえ」


 最後の一節を紡ぎ終えた瞬間、首元の枷が低く震えた。


『詠唱の延長:三節超過。テノアに一ヶ月と二週間を追加します』


 平坦なリトシステムの応答音が、夏の畑に小さく滲んだ。


 けれど、その代償と引き換えに、目の前の光景は確かに変わり始めていた。

 黄ばんでいた葉先が、見る間に色を取り戻していく。

 根元の土が、しっとりと潤いを帯びていった。

 畝全体が、まるで深く息を吸い込んだかのように、静かに張りを取り戻していくのがわかった。


 薬師が、両手で口を覆いながら、その光景に見入っていた。


「本当に聖女様だ」


 感嘆の声には、もはや疑いの余地もなかった。

 ノエルは立ち上がり、何か言おうとしたが、結局、苦笑いを浮かべるだけにとどめた。土で汚れた手のひらを、エプロンでそっと拭っている。


 アルドは筆談ノートを開いた。

 彼女の隣にそっと並び、紙にペンを走らせる。

 今しがた見た光景の確かさと、薬師の口にした呼び名の軽さの間に生まれた落差を、何とか埋めたいという思いがあった。


『呼び名は、あなた自身には何も変えません』


 ノエルがその文字を見つめる。アルドはもう一行、書き添えた。


『あなたが何者であるかは、あなたの詠唱が示します』


 その言葉に、ノエルは小さく頷いた。

 薬師は深々と頭を下げ、何度も礼の言葉を重ねていたが、その声はもう、二人の耳には半分しか届いていなかった。


     * * *


 帰路の街道は、夏の陽射しに照らされていた。


 蝉の声が遠ざかり、代わりに穏やかな虫の音が草むらから聞こえ始めている。

 ノエルはしばらく無言で歩いていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……精霊は、聖女なんて呼ばないですよね」


 誰に問うでもない、独り言のような声だった。

 アルドが小さく頷くと、彼女は少し考えるように間を置いてから、続けた。


「じゃあ、まあ、いいかな」


 その一言には、迷いの跡がほとんど残っていなかった。

 人間がどんな名前で呼ぼうとも、精霊たちとの関係だけは変わらない。

 そのことを、彼女は自分自身の手で、もう一度確かめたようだった。

 アルドはその横顔に、確かな成長の跡を見た気がした。


 傍らに、ふわりとレイの気配が立った。

 光の粒のような輪郭が、夏の陽射しの中で揺らめいている。


「あの子、しっかり地に足がついてる。呼び名くらいで流されないよ」


 レイの声は、いつも通り軽やかだった。


「精霊が、名前じゃなくて、本人を見てるって、あの子はちゃんと知ってる」


 その言葉に、アルドは静かに頷いた。

 聖女という名前が、これからどれほど大きく広がっていこうとも、目の前を歩くこの少女の本質だけは、揺らぐことがないのだろう。


 王都にまで届いているという噂の大きさを思うと、これから先の道のりが平坦でないことは、容易に想像がついた。それでも、隣を歩くノエルの足取りは、いつもと変わらず軽やかだった。


 夏の街道に、二人と一柱の気配が、ゆっくりと長く伸びていった。


     * * *


「聖女、という名前が、彼女に追いつこうとしている。

 でも、彼女の歩調は、その名前よりも、少しだけ速い」

―― アルド、夏の街道にて

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