第77話 名前が先を歩く
夏の盛り、学院の掲示板には、依頼の文面に変化が現れ始めていた。
アルドはその一枚を見つめながら、小さな違和感を覚えていた。「詠唱士を派遣してほしい」という従来の文言ではなく、「できれば、ノエルを派遣してほしい」という、名指しの依頼が目立つようになっている。
掲示板に貼られた依頼書の数枚に、すでにその傾向がはっきりと表れていた。
研究室で、アルドは筆談ノートを開いた。窓の外には、夏の強い日差しが降り注いでいる。机の端には、各地から届いた依頼書が、無造作に積み重なっていた。
『最近、各地で小さな異変が報告されています』
ノエルがその文字を覗き込む。アルドはもう一行、書き加えた。
『作物の病や、天候の不順。それらが繋がっている可能性があります』
ノエルは少し眉をひそめながら、その言葉を読み返していた。
これまで個別に対応してきた依頼の一つ一つが、もしかしたら、もっと大きな何かの一部かもしれない――その可能性に、二人とも、まだはっきりとした輪郭を見出せずにいた。
机の上に広げられた依頼書の束を、ノエルは一枚一枚、丁寧にめくっていった。
それぞれの依頼書には、村の名前と、簡潔な異変の内容が記されている。
一見すると無関係に思える出来事が、地図の上に並べてみると、どこか不穏な広がりを見せているようにも思えた。
* * *
翌日、街道を歩いていると、旅人らしき男性が、息を切らしながらこちらへ駆け寄ってきた。土埃にまみれた服装から、かなりの距離を急いで来たことがうかがえた。
「聖女様でいらっしゃいますか。お願いがありまして……」
ノエルが訂正しようとする前に、男性は早口で続けた。
「北の方角で、村が一つ、作物が全滅してしまいました。三ヶ月前から、何を植えても育たない。幾人かの詠唱士や魔術師の方が精霊への詠唱は試したんですが、全く応えてくれなくて」
その言葉に、アルドは小さく息を呑んだ。
精霊が「全く応えない」という事態は、これまで一度も耳にしたことがなかった。
逸脱した詠唱であっても、規定通りの詠唱であっても、精霊たちは何かしらの形で応えてきたはずだった。
旅をしてきた数々の村で、応えなかった精霊など一柱もいなかった。
男性は縋るような目で、ノエルを見つめていた。
「村の者たちも、もう半分諦めかけているんです。それでも、噂を聞いて、もしかしたらと思って」
その言葉の端々に滲む疲労は、単なる一時的な不作とは思えないほどの重さを帯びていた。三ヶ月という時間は、村人たちにとって決して短いものではないはずだった。
ノエルは男性の必死な表情をまっすぐに見つめ、迷うことなく頷いた。
「来週なら、行けますよ。それでもいいですか」
その声には、迷いも気負いもなかった。
ノエルは自分から、学院外依頼の正式な手続きについても申し出た。
指名されることへの戸惑いは、いつの間にか、自分の足で動くための確かな足場へと変わっているようだった。
その後ろ姿を見送りながら、アルドは胸の奥にざわつくものを感じていた。
これまで旅してきたどの土地でも、精霊が完全に沈黙したという話は聞いたことがなかった。
風が弱いことはあっても、土が痩せていることはあっても、応えること自体を拒むような事態は、前例のないものだった。
男性は何度も頭を下げながら、村への道順を伝え、足早に去っていった。
アルドはその後ろ姿を見送りながら、胸の奥にざわつくものを感じていた。
* * *
その夜、宿の一室で、アルドが一人、地図を広げていると、傍らにふわりとレイの気配が立った。
蝋燭の灯りが、光の粒のような輪郭を淡く照らしている。
「精霊が応えないのは、珍しいことだよ」
レイの声は、いつもより幾分か低く、慎重な響きを帯びていた。
「よっぽどのことがなければ、精霊は詠唱を無視しない」
アルドは筆談ノートを開きかけたが、その前にレイが続けた。窓辺に近づき、夜の闇に目を凝らすような仕草を見せる。
「まだ、分からない。でも――気は抜かない方がいいね」
窓の外では、夏の夜風が静かに葉擦れの音を立てていた。
レイはしばらく沈黙した後、これまでにない重みを持った声で言葉を継いだ。
「もし、ほんとうに大きな変化が来るとしたら」
その一言に、アルドは息を詰めた。これまでレイが口にしてきた言葉の中で、最も重く、最も曖昧なものだった。
「その時は、お前たちが、一番大事な役を担うことになるかもしれない」
レイの気配が、そのまま静かに薄れていく。
残された部屋の中で、アルドはしばらくの間、地図に描かれた北の村の位置を、ただじっと見つめ続けていた。
各地で起きている小さな異変の点が、地図の上で、まだ繋がらない線として散らばっている。その先に何があるのか、今はまだ、誰にもわからなかった。
隣の部屋からは、ノエルの寝息らしき静かな気配が、薄い壁を通してかすかに伝わってきていた。何も知らないまま眠る彼女の安らかさが、今のアルドには、かえって胸に迫るものがあった。
* * *
「名前が先を歩いている。
でも、名前が準備した場所に、本人が辿り着くとしたら
――その道のりを、私は隣で見続けたい」
―― アルド、宿の夜にて




