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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第75話 それぞれの一歩

 学院中庭には、初夏の風が穏やかに吹き渡っていた。

 木々の緑が日に日に濃さを増し、季節は確実に夏へと向かっている。


 練習場の方から、マルクがいつもより少し早足でこちらに歩いてくる。

 その表情には、隠しきれない高揚が滲んでいた。


「今日の練習で、風の精霊が、いつもより強く応えてくれた」


 報告するような口調だったが、その声の奥には、確かな喜びがあった。アルドが頷くと、マルクは少し言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。額にはまだうっすらと汗が浮かんでいる。


「あなたの証言で、印象に残っている言葉があります。『一度も例外がなかった』という言葉です」


 審査室であの言葉を口にしたとき、自分でもまだ確信が持てずにいたことを、アルドは思い出した。マルクは腕を組み、空を見上げるように視線を上げた。


「俺には、まだ、そこまでの確信はない」


 その声には、正直な迷いがあった。だが、続く言葉には、迷いを上回る何かが宿っていた。


「でも――いつか、そう言えるようになりたいと思っています」


 その一言に、アルドの胸が静かに熱くなった。


 いつか同じこの中庭で「精霊の声が聞こえたことが一度もない」と告白したあのマルクが、今、まったく違う場所に立っている。


 アルドはそのことを、誰よりも近くで見届けてきた一人として、静かに噛みしめていた。マルクは小さく頷くと、それ以上多くを語らず、また練習場の方へと戻っていった。その後ろ姿は、以前よりも幾分か軽やかに見えた。


     * * *


 夕方、副学院長室の前を通りかかると、フォルクとヴィナスが扉の前で何やら話し込んでいるのが見えた。


 アルドは少し離れた場所で足を止め、聞くともなしにその様子を見守った。

 窓から差し込む夕暮れの光が、二人の影を廊下に長く落としている。


「……任意節の歴史的変遷について、来月、王立図書館の資料を確認しに行く」


 フォルクの声が、廊下に低く響いた。

 手には、あの古い記録の写しの束を抱えたままだった。


「私も同行します」


 ヴィナスの返答は、いつも通り簡潔だった。

 だが、その声に滲む確かな意志は、以前の彼女からは想像もできないものだった。


 規定の番人としての立場を貫きながら、初めて自ら制度の外側に踏み出そうとしているヴィナス。

 三十年前の沈黙を、ようやく行動という形に変えたフォルク。


 二人の間には、これまで見たことのない種類の連帯があった。

 立場も、年齢も、抱えてきた沈黙の重さも違う二人が、今、同じ目的のために肩を並べている。


(規定の番人と、規定を疑った男が、今、同じ方向を見て歩き始めている)


 アルドは胸の中でそっと呟いた。誰に語るでもない、自分だけの確認だった。


     * * *


 廊下を抜け、再び中庭へと足を向けると、夕暮れの光が石畳を橙色に染めていた。


 ノエルが、ベンチに腰掛けて空を見上げている。アルドはその隣に並んで座った。

 風が二人の間を吹き抜け、花壇の香りをかすかに運んできた。


「学院内の視線、前より、気にならなくなりました」


 ノエルは穏やかな声でそう言った。先日の不安げな表情は、もうそこにはなかった。


「師匠が、『あなたの詠唱は、あなたのものです』って言ってくれたから、かもしれません」


 彼女は少し照れたように微笑んだ。


「あの言葉、ずっと覚えてます」


 その言葉に、アルドの胸が温かくなった。

 あの夜、迷いながら書いた言葉が、確かにノエルの心の中に根を下ろしていた。


 しばらくの沈黙の後、ノエルがふと、夕焼けの空を見つめながら呟いた。

 空の色は、橙から紫へとゆっくり移り変わろうとしていた。


「これから、私たちは、どうなっていくんでしょう」


 その問いには、不安というよりも、純粋な好奇心に近い響きがあった。

 卒業審査という大きな山場を越え、彼女は今、初めてその先の未来そのものに目を向けている。


 アルドは筆談ノートを開いた。

 即答できる問いではなかった。

 けれど、嘘で取り繕う必要もなかった。

 これまでの旅路で何度も交わしてきた約束と、今この瞬間の気持ちを、慎重に紙の上へ移していく。


『分かりません』


 正直な一文字目だった。ノエルがその文字を見て、小さく笑う。アルドはもう一行、迷いなく書き加えた。


『ただ、今日も、明日も、あなたの隣にいます』


 ノエルはその文章を、長い間見つめていた。

 やがて、夕陽に照らされた顔に、静かな満足の色が浮かんだ。

 涙ぐむでもなく、ただ穏やかに、その言葉を受け止めているようだった。


「それで、十分です」


 短い言葉だった。

 だが、それ以上の何かを求める必要などないのだと、彼女の表情がはっきりと物語っていた。


 夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けていく。

 マルクの一節、フォルクとヴィナスの調査旅、そしてこの隣り合うベンチ――それぞれの小さな一歩が、確かに同じ方向へと重なり始めていた。


 空には、一番星がぽつりと瞬き始めていた。


     * * *


「それぞれの一歩は、まだ小さい。

 マルクの一節、フォルクの調査、ヴィナスの同行。

 でも、小さな一歩が積み重なれば、

 いつか、誰も止められない流れになる」

―― アルド、夕暮れの中庭にて

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