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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第74話 初夏の便り

 学院食堂の朝は、いつも通りの喧騒に包まれている。

 ノエルが焼き菓子を差し入れしたあの夜から、ちょうど一週間が経っていた。


 だが、ノエルの周りには、以前とは違う種類の空気が漂い包み始めていた。

 すれ違う学生たちの視線が、これまでよりも少し長く、彼女の上に留まる。


 ひそひそとした囁き声が、時折アルドの耳にも届いた。

 

 窓の外には初夏の青空が広がり、季節は確実に移り変わろうとしていた。


 ノエル自身も、何かを感じ取り始めているようだった。パンを千切る手が、いつもよりわずかに遅い。視線をふと巡らせては、誰かと目が合うたびに、小さく戸惑った表情を見せていた。


「最近、なんか、見られてる気がします」


 誰へともなく、そう呟いた。アルドは何も言わず、ただ小さく頷いた。何と書けば彼女の不安が和らぐのか、まだその言葉を見つけられずにいた。


     * * *


 午後、図書室で写本作業をしていると、見慣れない下級生がおずおずと近づいてきた。両手をぎゅっと握りしめ、何度も言葉を選び直しているような様子だった。


「あの、先輩の詠唱、見てみたいです」


 緊張した面持ちで、その下級生は早口にそう告げると、一礼してそそくさと去っていった。ノエルはしばらく、その背中を呆然と見送っていた。

 羽根ペンを持つ手が、机の上で止まったままだった。


「聖女、とか、規格外、とか、色々言われてるみたいです」


 ノエルはペンを置き、机に視線を落としながら言った。

 その声には、戸惑いが滲んでいた。


「嬉しいような、怖いような……」


 ぽつりと漏れた一言に、アルドは耳を傾けた。

 書架の隙間から差し込む光が、彼女の横顔を静かに照らしている。


「私はただ、精霊と話したくて詠唱してるだけなのに、それを見たいって言われると、なんか、自分の詠唱が、自分のものじゃなくなる感じがして……」


 その言葉には、これまでのノエルが見せたことのない種類の不安、戸惑いがあった。

 

 リトシステムの規定ルールや審査委員会といった、外側から押し付けられる枠組みとは違う、もっと曖昧で、捉えどころのない重さ。


 アルドはその重さの輪郭を、まだはっきりとは掴めずにいた。

 誰かに見られ、評価され、呼び名をつけられ、注目される――その過程で、本来の彼女の詠唱がすり減っていくことだけは、避けたいと思った。


 図書室の静けさの中で、二人はしばらく、言葉もなく座り続けていた。


     * * *


 夕方、二人が研究室に戻ると、扉が叩かれ、フォルクが顔を出した。

 手には、これまで見たことのない分厚い紙の束を抱えている。


「少し、報告がある」


 彼は懐から、古い記録の写しを取り出し、机の上に広げた。紙は黄ばみ、ところどころ虫食いの跡が見える、相当な年代物だった。


「百年以上前の詠唱記録には、今よりずっと多くの任意節が使われていた形跡がある」


 その言葉に、アルドは身を乗り出した。フォルクは記録の文字を指でなぞりながら、続けた。


「リトの規定ルールは、時代を経るごとに厳しくなってきたらしい。当時は、今よりずっと自由な詠唱が許されていた」


 個人的に集め始めたという資料には、フォルクの几帳面な書き込みが、いくつも残されていた。再検討委員会の正式な設置はまだ手続きの途中だが、彼はすでに、自分にできることから動き始めているのだろう。古い記録の一枚一枚に、付箋と注釈が丁寧に貼り付けられている様子から、その情熱の深さがうかがえた。


「例外で終わらせたくない。それだけだ」


 短い一言に、フォルクの決意が込められていた。

 ノエルはその資料を覗き込み、興味深そうに目を輝かせていた。古い文字を一つ一つ追いながら、自分の詠唱と、百年前の誰かの詠唱とが、どこかで繋がっているような感覚を覚えているようだった。


 フォルクが帰った後、夜の帳が研究室にもゆっくりと降りてきた。


 机の上に広げられたままの古い記録を、ノエルはしばらく名残惜しそうに小一時間眺めていた。それが終わると、窓辺に移り、外の暗闇を見つめていた。

 昼間の不安が、まだ完全には消えていないようだった。


 アルドは筆談ノートを開いた。

 今日聞いた彼女の言葉に、何か応えを返したいという思いが、胸の中で静かに膨らんでいた。「聖女」「規格外」という言葉が、これからどれだけ彼女の周りに積み重なっていくのか、まだ誰にもわからない。だからこそ、今、伝えておくべき言葉があると思った。


『あなたの詠唱は、これからも、あなたのものです』


 ノエルが振り返り、その文字を見つめる。

 窓の外の星明かりが、彼女の瞳にうっすらと映り込んでいた。

 

 アルドはもう一行、書き加えた。


『誰がどう見ても、それは変わりません』


 ノエルはしばらく、その二行を見つめていた。

 やがて、強張っていた肩から、少しずつ力が抜けていくのがわかった。


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。だが、そこには確かな安堵が滲んでいた。


 窓の外には、初夏の夜空が静かに広がっている。


 彼女の詠唱がこれから先、どんな名前で呼ばれるようになろうとも、その本質だけは変わらずにいてほしいと、アルドは胸の中で静かに願っていた。


 机の上に広げられたままの古い記録の写しが、灯りの下でかすかに揺れていた。


     * * *


「名前がつけられるとき、その名前は、

 本人の知らないところで、少しずつ膨らんでいく。

 彼女がまだそれに気づいていないことが、

 今はせめて、救いだった」

―― アルド、夜の研究室にて

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