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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第73話 審議の後

 学院食堂の朝は、いつも通りの喧騒に包まれていた。


 だが、その喧騒の端々には、昨日までとは違う種類のざわめきが混じっていた。すれ違う学生たちの視線が、時折ノエルの方へと向けられる。


 審査委員会の結果は、すでに学院中に広まっているのだろう。好奇の視線もあれば、どこか敬意を含んだような視線もあった。


 当のノエルは、そんな視線にほとんど気づかぬ様子で、いつも通りパンを美味しそうに頬張ってご満悦だった。


「今日のスープ、いつもよりちょっと味が濃いですね」


 そんな呑気な感想を漏らしながら、彼女はいつもの食卓の時間を過ごしている。


 アルドはその様子に、思わず小さく息を吐いた。重圧を抱え込まず、自分らしくいられるノエルの強さを、改めて見せつけられた気がした。窓の外には、初夏の青空が広がっていた。


     * * *


 朝食を終え、中庭を横切っていると、練習場の方からマルクが歩み寄ってきた。

 今日も変わらず、規律正しい型を繰り返していたのだろう、額にうっすらと汗が浮かんでいる。


「審議の結果、聞きました」


 短い前置きの後、マルクは腕を組みながら続けた。


規定ルール自体が、その仕組みを疑い始めた、ということでしょうか」


 その言い方には、皮肉でも諦めでもない、どこか興味深そうな響きがあった。アルドが頷くと、マルクはふと視線を空へと向けた。


「俺の任意節も、いつか、規定の中に入るかもしれないな」


 独り言のような呟きだった。


 だが、その声には、希望に近い色が確かに滲んでいた。

 技巧も装飾もなかったあの「……風よ」という一言から始まった彼の変化が、ここでまた一つ、新しい形を結んでいるのだとアルドは感じた。


     * * *


 午後、フォルクの研究室を訪れると、彼は書架の前で何やら書類を整理していた。

 以前訪れたときよりも、机の上の書類が一段と増えているように見えた。

 再検討委員会という新しい仕事が、早くもこの部屋に押し寄せ始めているのだろう。


「再検討委員会だが、私が委員長を任されることになった」


 振り返らずに、フォルクは言った。


「提案した者が、責任を取るのは当然だろう」


 その声には、覚悟の重さが滲んでいた。

 三十年前に棄却された提案が、今、ようやく形を持って動き出す。

 その先頭に立つことを、フォルクは静かに引き受けていた。三十年という長い沈黙の後で、ようやく自分の手で動かせる場所に立ったのだという実感が、その背中からも伝わってくるようだった。


「時間はかかる。下手をすれば、何年もかかるかもしれない」


 フォルクは振り返り、アルドをまっすぐに見た。


「だが、始めなければ、何も変わらない」


 その言葉には、三十年分の後悔と、それでも前を向こうとする意志が、確かに込められていた。


「お前たちの記録が、きっかけになった」


 短い一言だったが、フォルクなりの、精一杯の感謝の表し方なのだろう。

 その言葉に、アルドは深く頭を下げた。


     * * *


 夕方、副学院長室の前を通りかかると、扉が開き、ちょうどヴィナスが出てくるところだった。


 彼女はアルドに気づくと、歩みを止めた。両手には、いつもの書類の束ではなく、何か個人的な荷物らしきものが抱えられている。


「明日から、また通常の業務に戻ります」


 いつも通りの平坦な声だった。アルドが何か書こうとすると、ヴィナスはそれを制するように、静かに続けた。


「礼を言われることではありません。私は、規定に従って判断しただけです」


 その言葉は、これまでと変わらぬ規定の番人としての立場を貫くものだった。


 だが、アルドにはその奥に、これまで見えなかった何かが、確かに色づいているのが感じられた。十五年間、算定部門で積み重ねてきた違和感。それを言葉にした昨日の彼女の姿が、今もまだ、平坦な声の奥に静かに息づいているようだった。窓から差し込む夕陽が、彼女の白いローブの襟元を、いつもより柔らかく照らしていた。


 ヴィナスはそれ以上何も言わず、軽く会釈をして廊下を歩み去っていった。

 その背中を、アルドはしばらく見送っていた。


     * * *


 夜、研究室の扉が控えめに叩かれた。

 ノエルが、小さな包みを抱えて顔を出す。


「焼き菓子、作ってみたんです。お裾分けです」


 甘い匂いが、机の上に広がった。アルドはそれを受け取り、小さく頷いて礼を示した。包みの中には、ほんのりと焦げ目のついた焼き菓子が、丁寧に並べられていた。


 ノエルは向かいの椅子に腰を下ろし、しばらく窓の外を眺めていた。それから、ぽつりと口を開いた。


「私の魔術詠唱――例えリトのルールに反していたとしても、誰かの何かを少しでも動かせたのだとしたなら、それも、悪いことじゃなかったのかもしれません」


 その言葉には、これまでの不安や戸惑いを経て辿り着いた、静かな確信があった。


 アルドはその横顔をしばらく見つめてから、筆談ノートを開いた。

 昨日の夕暮れから温め続けていた言葉を、今夜こそ伝えるべきだと思った。


『あなたの詠唱が、誰かの心を動かしました』


 ノエルがその文字を見つめる。アルドはもう一行、続けた。


『それは、間違いではなく、あなたの詠唱そのものの力です』


 ノエルは目を見開いて、それから頬をほんのり赤く染めた。

 膝の上で組んだ手の指先が、わずかに動いた。


「そんな、大げさですよ師匠」


 照れくさそうに笑いながら、彼女は視線を泳がせた。

 けれど、すぐに表情を和らげ、もう一度アルドを見た。


「でも、ありがとうございます」


 机の上のハーブの香りと、焼き菓子の甘い匂いが、静かに混じり合って優しい空気で部屋を満たしていた。


 窓の外には、初夏の夜空が広がっている。


     * * *


「規定が変わるには、時間がかかる。

 でも、人の心が動くのに、時間はそれほどかからない。

 今日、私はそれを知った」

―― アルド、その夜の研究室にて

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