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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第72話 審議の結論

 審査委員会二日目の朝。

 学院審査室には、昨日とは違う種類の緊張が漂っていた。委員たちの表情には、一晩の間に何かを考え抜いた跡が見える。

 

 窓から差し込む朝の光は、昨日よりも幾分か柔らかく感じられた。ノエルは今日も傍聴席に座り、膝の上の手を固く握りしめていた。アルドはその隣に並ぶ椅子に腰を下ろし、静かに開廷を待った。


 最初に口を開いたのは、ヴィナスだった。彼女の手元には、昨日にはなかった分厚い書類の束が積まれている。目の下にはうっすらと疲労の色が見えた。

 一晩、まんじりともせず、何かに向き合い続けていたのだろう。普段の隙のない佇まいに、わずかな疲れの影が差していることに、アルドは静かに気づいていた。


「議事録には、フォルク教授の証言通りの内容が記されていました」


 その声は、いつも通り平坦でありながら、どこか張り詰めていた。


「神霊の意志については、一行も触れられていません」


 昨夜のうちに、ヴィナスは自ら学院公文書庫に足を運び、三百年以上前の評議会議事録を確認していたのだという。フォルクの証言を裏付けるためだけに、彼女は一晩を費やした。アルドはその事実に、胸の奥が静かに揺さぶられるのを感じた。


 年配の教授が、なおも反論を試みようとした。だが、ヴィナスはそれを遮るように、静かに、けれど確かな強さで言葉を続けた。


「秩序とは何のためにあるのでしょうか」


 審査室の空気が、一瞬で凍りついた。これまで「規定の番人」として誰よりも忠実にその役割を果たしてきたヴィナス自身の口から、制度の根本を問う言葉が発せられたのだ。


「もし、その本質と、運用している秩序が矛盾しているなら、私たちは、その矛盾を無視して良いのでしょうか」


 誰も、すぐには答えられなかった。年配の教授は、苦々しい表情のまま口を噤んだ。フォルクは静かに頷き、ヴィナスの隣で立ち上がった。


「規定違反の事実を記録に残しつつ、処遇は『継続審議』とする」


 フォルクの声が、審査室に響き渡った。重い処分を避けるための方便ではなく、確かな意志を持って選び取られた結論であることが、その声の強さからわかった。


「ノエル・ブライトガーデンの卒業・進級には影響を与えない」


 その一言に、ノエルの肩から、目に見えて力が抜けた。アルドは隣で、彼女の手がわずかに震えているのを感じた。安堵と、まだ消えきらない緊張とが、その震えの中に同居しているようだった。


「この件を契機として、リトシステムおよび任意節の規定について、学院として正式な再検討委員会を設置する」


 その宣言は、審査室全体を静かに包み込んだ。重い処分を避けながら、制度そのものに問いを投げかける――フォルクとヴィナスが、それぞれの立場でようやく辿り着いた結論だった。年配の教授も、もはやそれ以上の反論を口にすることはなかった。


 ヴィナスがノエルの方へ視線を向けた。


「あなたの詠唱についての規定ルール上の評価は、保留とします」


 その声は、これまでで一番、人間らしい温かみを帯びているように、アルドには聞こえた。


「卒業・進級に関する不利益は、一切発生しません」


 ノエルは大きく息を吐き出した。涙が、頬を伝う。だが、ヴィナスはそこで言葉を止めなかった。


「ただし、今後も、その詠唱を続けるかどうかは、あなた自身の選択です」


 その問いに、ノエルは涙を拭うこともせず、まっすぐに顔を上げた。


「続けます」


 迷いのない、はっきりとした声だった。


規定ルールが、どう判断しても。精霊が待ってるなら、続けます」


 審査室に、静かな沈黙が落ちた。

 誰も、その言葉に異を唱えようとはしなかった。

 アルドはその横顔を見つめながら、胸の奥に温かいものが満ちていくのを感じていた。


     * * *


 夕方、アルドの研究室には、夕陽の色が深く差し込んでいた。扉が叩かれ、フォルクが姿を見せる。


「お前の証言が、無駄だったとは思わないでくれ」


 前置きなく、フォルクはそう言った。

 客観的証拠ではないと退けられたあの場面を、彼もまた覚えていたのだろう。


 アルドは小さく頷いた。証言そのものの重みより、ここまでの結末に辿り着いたことの方が、今は何よりも大切だった。


 フォルクはそれ以上多くを語らず、軽く肩を叩いて部屋を出ていった。


 一人になった研究室で、アルドは机に向かい、静かに息を吐いた。


 その瞬間、傍らにふわりとレイの気配が立った。光の粒のような輪郭が、夕暮れの薄闇の中で淡く揺らめいている。


制度リトシステムが、自分自身を疑い始めたんだね」


 レイの声は、いつものように軽やかだった。だが、その軽やかさの奥に、確かな感慨が滲んでいた。


「人間が作った制度が、人間自身の手で、ゆっくり崩れ始めている」


 その言葉に、アルドは筆談ノートを開いた。今日という日の重みを、自分の中だけに留めておくのではなく、形にして残しておきたかった。


『今日のことを、いつか、ノエルに改めて伝えたい』


 ペン先が、もう一行を綴る。


『規定が変わるかどうかではなく、彼女の詠唱が、誰かの心を動かしたという事実を』


 窓の外では、夕陽が学院の屋根を赤く染めていた。


 フォルクの三十年、ヴィナスの十五年、そして今日この場で動いた幾つもの心。

 それらすべてが、たった一人の少女の、迷いのない一言から始まったのだということを、アルドは静かに噛みしめていた。


 卒業審査委員会という重い山場は、今日、確かに一つの形で終わりを迎えた。だが、再検討委員会という新しい動きが、これからどんな形を取っていくのか、まだ誰にもわからない。


 机の上のノートを閉じながら、アルドはその静かな予感を、自分の中にそっとしまい込んだ。


     * * *


「規定は、変わらないかもしれない。

 でも、規定を運用する人間の心は、今日、確かに動いた。

 それで十分だと、私は思う」

―― アルド、夕暮れの研究室にて

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