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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第71話 審査委員会、開廷

 学院審査室は、これまでアルドが足を踏み入れたどの部屋よりも厳粛な空気に満ちていた。


 半円形に並んだ机に、五人の委員が着席している。中央にヴィナス、その隣にフォルク、そして見覚えのない三人の委員――年配の教授と、その両脇に控える二名。


 傍聴席にはノエルが、膝の上で手を強く握りしめたまま座っていた。彼女の隣の席は、今日のために空けられていた。


 窓から差し込む初夏の光が、磨き上げられた木の床に長い影を落としている。

 アルドは証言席に立ち、その静けさの重さを全身で感じていた。声を持たない自分が、この場でどう「証言」するのか――その方法すら、これまで一度も経験したことのないものだった。室内の壁には、これまでの卒業審査の記録を収めた古い書架が並び、何百年分もの判断の積み重ねが、無言の圧力となって部屋全体を満たしているようだった。


 ヴィナスが書類を一枚取り、淡々とした声で読み上げる。室内の誰もが、その声に静かに耳を傾けていた。


「対象期間は四十二日間。詠唱記録は四十二件。そのうち三十八件において、規定文言からの逸脱、あるいは節数の超過が確認されています」


 その数字が読み上げられるたびに、室内の空気がわずかに張り詰めていくのを、アルドは感じた。


「九割を超える超過率というのは、私の知る限り、学院史上、例を見ない数字です」


 年配の教授が、眉間に深い皺を刻みながら言った。その声には、明確な非難の色があった。白髪の交じった眉の下で、目だけが鋭くアルドを捉えている。


「規定は学院の秩序そのものです。これほどの逸脱を、前例なく許容するわけにはいきません」


 ヴィナスは小さく頷き、アルドの方へ視線を移した。


「アルド教授。証言を求めます」


 アルドは筆談ノートを開いた。室内の視線が、一斉に自分へと注がれるのを感じながら、ペン先をゆっくりと紙に下ろす。これまでの旅のすべてを、たった数行に込めなければならなかった。風が踊った瞬間、土地が応えた瞬間、井戸の水が澄み切った瞬間――それらの記憶が、一斉に胸の奥を駆け巡る。


『旅の間、ノエル・ブライトガーデンの詠唱が規定から逸脱するたびに、私は枷を通じて、神霊たちの反応を感知していました』


 ノートをヴィナスに向けて掲げる。彼女はそれを読み上げ、室内の全員にその文言が共有された。委員たちの視線が、一斉にノートへと集まる。アルドはもう一行、書き足した。


『その反応は、一度も例外なく、喜びでした』


 室内に、小さなざわめきが走った。だが、それはすぐに、冷ややかな沈黙へと変わった。年配の教授が、わずかに身を乗り出す。


「では、それは客観的な証拠ではない、ということですね」


 別の委員が、抑揚のない声で言った。


 アルドの胸が、鈍く痛んだ。だが、その指摘は正しかった。枷を通じた感知という現象を、数字や記録のように誰もが検証できる形で示すことは、できない。長年積み重ねてきた感覚を、この場で証明する手段を、自分は持っていない。


 アルドは唇を結び、もう一度ペンを取った。否定せず、それでも自分の中にある確信を、最後まで書き留めることだけは諦めたくなかった。


『客観的な証拠ではないということは、その通りだと思います』


 そしてもう一行。


『ただ、これほど一貫して感じたことは、これまでありませんでした』


 ヴィナスはその二行を読み終え、静かに頷いた。


「アルド教授の証言は、記録に残します。ただし、規定上の処分の判断材料としては、参考程度に留めます」


 予想していた結論だった。それでも、実際に言葉として告げられると、室内の空気が一段と重くなった気がした。ノエルが膝の上の手を、さらに強く握りしめているのが、視界の端に見えた。彼女の表情からは、先ほどまでの落ち着きが少しずつ削がれていくのがわかった。


 長い沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、これまで一言も発していなかったフォルクだった。これまでずっと、委員席の端で腕を組んだまま、議論の行方をただ見守っていた彼が、ゆっくりと身を起こす。


「この審議は、ノエル・ブライトガーデンのリトシステム規定違反を問うものです」


 低く、落ち着いた声だった。フォルクは委員席から立ち上がり、室内全体を見渡すように視線を巡らせた。その目には、長年学院に身を置いてきた者だけが持つ、静かな重みがあった。


「しかし――その規定ルールそのものについて、議論する余地はありますか」


 その一言に、室内の空気が明らかに変わった。年配の教授が眉をひそめる。


「フォルク教授。それは審議の範囲を超えています」


「いいえ」フォルクは静かに、しかし揺るぎなく言葉を続けた。「規定ルールの妥当性を問わずに、規定違反だけを裁くことはできません」


 委員たちの間に、戸惑いと緊張が混じり合った。誰もが、これまでフォルクという人物に対して抱いていた印象――規定に忠実な、学院最先任の教授としての姿――との落差に、戸惑いを隠せずにいるようだった。長年沈黙を守り続けてきた人物の口から、これほど踏み込んだ言葉が発せられるとは、誰も予想していなかったのだろう。フォルクは懐から、一枚の古い紙片の写しを取り出した。長年大切に保管してきたのだろう、紙の端は黄ばみ、所々に折り目の跡が残っていた。


「三十年前、私はこの議事録を見た」


 フォルクはその紙片を、委員席の中央に向けて静かに置いた。


「リトシステムは、神霊の意志とは無関係に、人間側の都合だけで制定された制度です。三百年以上前の評議会議事録に、そう記されています」


 その言葉は、審査室の重い静けさを切り裂くように響いた。


 アルドはフォルクの研究室で聞いたあの告白が、今、初めて公式の場で語られているのだということを、痛いほど実感していた。


 三十年という歳月をかけて、ようやくここまで辿り着いた言葉だった。あの研究室で見た夕暮れの光景が、今、この審査室の中で確かに結実しようとしている。


「もし、この制度が神霊の意志と無関係であるなら――神霊が実際にどう反応したかという事実は、無視できないものになるのではないでしょうか」


 フォルクの問いは、誰に向けられたものでもなく、審査室全体に静かに投げかけられていた。誰も、すぐには答えられなかった。年配の教授は何かを言いかけ、それから口を噤んだ。両脇の二名の委員も、互いに視線を交わすばかりで、言葉を発しようとはしなかった。ヴィナスは長い間、机の上の書類を見つめていた。窓からの光が、彼女の白いローブの上で静かに揺れていた。


 やがて、彼女が顔を上げた。


「……休廷します」


 その声は、いつもと変わらず平坦だった。だが、その奥に、何かを慎重に選び取ろうとする意志が滲んでいるのを、アルドは感じ取った。


「本日の議論を踏まえ、明日、改めて審議を続けます」


 木槌が小さく打たれ、審査室に静寂が戻った。委員たちが席を立ち、それぞれ無言のまま部屋を出ていく。年配の教授は、最後にもう一度フォルクの方を一瞥してから、足早に廊下へと消えていった。その表情には、まだ消化しきれない戸惑いが色濃く残っていた。


 アルドが証言席を離れると、ノエルが駆け寄ってきた。その目には、興奮と安堵が入り混じった光があった。


「フォルク教授、すごいですね」


 彼女は声を弾ませながら、審査室の出口の方へ視線を向けた。フォルクの背中は、すでに廊下の向こうへ消えかけている。最後まで振り返ることなく、淡々とした足取りで去っていくその姿には、三十年分の重みを下ろしたばかりだとは思えないほどの静けさがあった。


「フォルク教授の、三十年分の沈黙が、今日、初めて声になったんですね」


 その言葉に、アルドは胸の奥が静かに震えるのを感じた。

 長い年月、誰にも語られなかった一つの真実が、今日、ようやく形を持って世に出た。明日、何が決まるのかはまだわからない。


 それでも、この一日が持つ重みだけは、確かなものだった。


 窓の外では、初夏の光が、何事もなかったかのように、いつも通り降り注いでいた。アルドはその光の中に、フォルクの去っていった廊下の先を、しばらくの間、見つめ続けていた。


     * * *


「沈黙が声になるとき、それは静かに始まる。

 審査室の空気が変わったことに、誰も気づかないほど、静かに」

―― アルド、審査室を出た廊下にて

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