第70話 審査前夜
研究室の窓の外は、夕暮れの色に染まり始めていた。
明日、審査委員会が開かれる。フォルク、ヴィナス、マルク――それぞれの中に生まれた変化が出揃った今、残された時間はあとわずかだった。机の上に広げたままの書類は、今日はまだ一文字も進んでいなかった。
扉が控えめに叩かれ、ノエルが顔を出した。手には、小さな茶器の盆を抱えている。
「井戸の村でもらったハーブ、煎じて淹れてみました。喉に良いって、おばあさんが言ってたので」
彼女は机の上に盆を置き、湯気の立つ茶を一杯、アルドの前に差し出した。爽やかな香りが、室内にふわりと広がる。アルドはそれを受け取り、小さく頷いて礼を示した。茶器を持つ手のひらに、ほのかな温もりが伝わってくる。
ノエルは向かいの椅子に腰を下ろし、しばらく無言で自分の茶器を見つめていた。湯気がゆらゆらと立ち昇り、その向こうの彼女の表情を、わずかに霞ませている。やがて、ぽつりと口を開く。
「もし、学院にいられなくなったら、私たちは、どうなるんでしょう」
これまで誰も口にしなかった問いだった。明日の審査の結果次第では、ノエルの学院籍が失われる可能性がある。彼女自身、それをずっと胸の奥に抱えながら、平静を装い続けてきたのだろう。今、初めてその不安が、言葉という形を取って表に出てきた。
アルドは筆談ノートを開いた。ペン先が、迷いなく動く。
『学院籍がなくなっても、あなたが魔術の詠唱をやめることはないと思いますが』
ノエルがその文字を見つめる。アルドはもう一行、続けた。
『精霊たちが、あなたを待っているからです』
その一文に、ノエルの肩から、わずかに力が抜けたのがわかった。学院という制度の枠組みの外側にも、彼女の居場所は確かに存在する。アルドはそのことを、迷いなく信じていた。
「……そうですね。火も、風も、土も、水も、規定なんて知らないですもんね」
ノエルは小さく笑った。涙の気配を含んだ、それでも確かな笑みだった。
しばらくの沈黙の後、彼女は思い出したように顔を上げた。
窓の外の薄闇に、何かを探すような目をしていた。
「そういえば、果実の種、まだ芽が出てないんです」
以前、二人で土に埋めたあの小さな種のことだった。芽吹くまでにはまだ時間がかかるのだろう。アルドはその言葉に、静かに頷いた。
「来年も一緒に見たいです。あの果樹園で」
まっすぐな声だった。確約のない未来に向けて、それでも彼女は迷わずその約束を口にした。明日どんな結果が出ようとも、来年という時間が当然のように続いていくことを、彼女は信じて疑わなかった。アルドはペンを取り、迷うことなく書いた。
『ええ、もちろん。約束します』
この言葉に、これまでのすべての日々が込められていた。旅の道中で交わした無数の言葉、選抜の日の螺旋の風、図書室での静かな午後――その一つ一つが、この二文字に集約されているような気がした。
ノエルはその文字を見て、今度こそ涙を堪えきれずに、ひとしずく、頬を伝わせた。だが、それはすぐに笑顔に変わった。
「師匠、今日はゆっくり休んでくださいね」
茶器を片付けながら、彼女はそう言った。
アルドは小さく頷き、筆談ノートに一言だけ書いた。
『あなたも、無理はしないでください』
その文字を見て、ノエルはくすりと笑った。
「でも、師匠の方が、なんか辛そうな顔してるので」
図星を突かれ、アルドは思わず視線を逸らした。明日の結果がどう転ぼうとも、自分が背負うべき責任の重さを、ノエルは案じてくれている。その優しさに、胸の奥が静かに熱くなった。
ノエルは盆を抱え、一礼して部屋を出ていった。扉が閉まる音が、静かな研究室に小さく響いた。
* * *
夜が更け、研究室の灯りだけが、窓の外に淡く滲んでいた。
アルドが一人、机に向かっていると、傍らにふわりとレイの気配が立った。
光の粒のような輪郭が、灯りの中で静かに揺らめいている。
「お前は、何を望んでいる」
唐突な問いだった。装飾のない、まっすぐな声。
アルドは筆談ノートを開き、長い沈黙の後、ペンを動かした。
これまでの旅のすべて、そして今日交わした約束のことを思い返しながら、慎重に言葉を選んでいく。
『ノエルが、これまでと同じように、詠唱を続けられることを望んでいます』
そこまで書いて、ペン先が一瞬止まる。それから、正直な一行を付け加えた。
『それ以外のことは、正直、まだよく分かりません』
レイはその二行を見て、小さく笑った。咎めるでも、急かすでもない、ただ静かに見守るような笑い方だった。
「学院の籍なんて、神々にとっては関係のない話だよ」
レイの声が、夜の静けさに溶けていく。
「お前が来るかどうか、それだけが重要だ」
その一言は、これまで人間の制度の中で揺れ続けてきたアルドの胸に、まっすぐ届いた。規定も、審査も、学院籍も――それらすべてが、神霊にとっては本質ではない。重要なのは、ただ、そこに在り続けるかどうかだけ。
十年間、規定という枠組みの中だけで物事を考えてきた自分にとって、その言葉はあまりにも単純で、それゆえにあまりにも強かった。
アルドは窓の外に目をやった。夜空には、星がいくつも瞬いている。
明日、何が決まるのか、まだ誰にもわからない。それでも、机の引き出しの奥には、いつかの果実の種を埋めた、あの土の感触の記憶が、確かに残っていた。
レイの気配は、いつの間にか静かに消えていたが、その問いの余韻だけは、夜更けの部屋にいつまでも漂い続けていた。
* * *
「明日、何が決まるかは、分からない。
それでも、彼女は果樹園の約束を口にした。
その約束の方が、明日の審査会よりも、
ずっと確かなものに思えた」
―― アルド、夜更けの研究室にて




