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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第69話 マルクの変化

 学院中庭の練習場には、初夏に近づく陽射しが満ちていた。

 日差しは日に日に強さを増し、木々の緑も濃くなっている。マルクの姿は、いつものように練習場の端にある。


 けれど、その様子には、以前とは違う何かがあった。型を一つ終えるたびに、ほんの一瞬、小さく目を閉じる。耳を澄ませるような、その仕草に、アルドは静かに気づいていた。誰かに見られていることなど気にも留めず、彼は毎朝同じ場所で、同じ型を繰り返していた。風の音、葉擦れの音、遠くの鳥の声――そのどれもが、以前の彼には届いていなかったものなのかもしれない。


 ノエルが写本作業の合間に中庭へ顔を出すと、マルクの方から先に声をかけてきた。普段の彼なら、自分から話しかけることなど滅多にないはずだった。


「あれから、毎日、一節だけ試している」


 前置きのない言い方は、相変わらずマルクらしかった。だが、その声には、以前にはなかった柔らかさが滲んでいる。表情も、どこか肩の力が抜けたように見えた。


「三日目に、何かが、応えた気がした」


 ノエルは目を輝かせ、思わず前のめりになった。組んでいた両手を、知らず知らずのうちに胸の前で握りしめている。


「本当ですか? どんな風に感じました?」


 マルクは少し困ったように視線を逸らしながら、それでも言葉を続けた。


「『風よ、よく晴れたな』って言ったら、葉っぱが一枚、急に揺れた。偶然かもしれないが」


 その日から、彼は毎朝、練習場で短い一言を風に向けて呟くようになったのだという。「今日も、頼む」と声をかけた日には、いつもより軽やかな風が吹いた。「お前のおかげだ」と告げた日には、汗ばんだ頬を、心地よい涼風がそっと撫でていった。技巧もなく、詠唱の型にも当てはまらない、ただの一言ずつ。


 それでも、マルクにとっては、これまでの人生になかった種類の対話だった。誰にも見せずに、毎朝一人きりでその対話を積み重ねてきたのだろう。


 アルドはその地道さに、静かな敬意を覚えた。


規定ルール上、これは違反になる」


 マルクは自分自身に言い聞かせるように呟いた。視線が一瞬、足元に落ちる。


「でも、続けたいと思っている」


 その声には、迷いの跡がまだ残っていた。だが、迷いながらも進もうとする意志の方が、はっきりと勝っていた。風がもう一度、二人の間を吹き抜けていく。


「もう少し、聞いてみたい」


 いつか中庭のベンチで「精霊の声が聞こえたことが一度もない」と告白したあの日のマルクからは、想像もできない言葉だった。アルドは少し離れた場所から、その変化を静かに見守っていた。


 ノエルは大きく頷きながら、自分の経験を語り始めた。彼女自身の旅の記憶を辿るように、視線がふと遠くを見つめる。


「私も、最初は、これでいいのかなって思いながら詠唱してました」


 彼女らしい、率直な言葉だった。誰かに教わったわけではなく、ただ手探りで精霊たちと向き合ってきた、その過程をマルクに分け与えるような口ぶりだった。


「精霊が応えてくれるたびに、これで合ってるんだって、少しずつ分かるようになりました」


 マルクはその言葉を、噛みしめるように聞いていた。


 確信のないまま続けることの不安を、彼自身もようやく実感し始めているのだろう。完璧であることをいつも求められてきた彼にとって、確信のないまま手探りで進むという行為そのものが、これまで縁のないものだったのかもしれない。


「お前みたいに、噛んだりはしないがな」


 ふと、マルクが軽口を挟んだ。

 先日の選抜で、ノエルが詠唱中に風に語りかけた様子を、からかうような口ぶりだった。


「それは、私だけの特技です」


 ノエルは少し頬を赤らめながら、すぐに言い返した。

 

 その軽やかなやり取りに、アルドは思わず目を細めた。マルクのこんな表情を見るのは初めてだった。完璧であることに縛られていた肩の力みが、少しずつ抜けていっている。練習場に吹く風さえも、二人のやり取りを楽しんでいるかのように、穏やかに揺れていた。


 アルドは筆談ノートを開き、静かにペンを走らせた。今日見たものを、一文字も漏らさず書き留めておきたいという思いがあった。


『マルクが変わり始めています――』と、続けて、『規定よりも、自分の感覚を信じる選択をしました』


 書き終えたその文章を、アルドはしばらく見つめていた。


 十年前の自分には、決して見えなかった種類の変化が、今、目の前で確かに起きている。規定という枠の外側に、確かな手応えを見出していく若者の姿を、自分はこれからも見届けていけるのだろうか。そんな問いが、ふと胸の中をよぎった。


 その瞬間、傍らにふわりとレイの気配が立った。光の粒のような輪郭が、初夏の日差しの中で揺らめいている。


「あの子の言葉一つで、人がこんなに変わるんだから、面白いもんだね」


 レイの声は、いつも通り軽やかだった。


 だが、その軽やかさの奥に、確かな感慨が滲んでいるのを、アルドは感じ取った。一人の言葉が、もう一人の心を静かに動かす。その積み重ねが、いつか何か大きなものへと繋がっていくのかもしれない。


 練習場の風が、もう一度マルクの周りを撫でていく。

 彼は小さく目を閉じ、その風の感触を、今度ははっきりと受け止めているようだった。ノエルはその様子を、満足げに見守っていた。


     * * *


「一人の変化は、小さな音にしか聞こえない。

 でも、その音が、別の誰かの耳に届くこともある」

―― アルド、練習場の隅にて

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