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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第68話 審査委員会について

 副学院長室は、相変わらず学院の他の部屋よりも温度が低いように感じられた。


だが今日のアルドには、前回ここに座ったときとは違う種類の緊張があった。フォルクの研究室で交わした会話の余韻が、まだ胸の奥に残っている。


窓の外には初夏の青空が広がり、部屋の冷ややかさとの対比が、いつも以上に際立っていた。


「アルド教授。お座りください」


 ヴィナスはいつもと変わらぬ平坦な声で言った。机の上には、見慣れた書類の束。だが今日は、その横に新しい一枚が加えられている。審査委員会の進行手順が記された紙だった。整然とした文字で、日時、場所、出席者の名が並んでいる。前回とは違う種類の緊張が、机の上のその一枚から滲み出ているようだった。


「審査委員会は、来月の第二週に開催されます。委員は五名。私と、フォルク教授を含みます」


 淡々とした説明だった。

 アルドは黙って耳を傾けながら、窓の外にちらりと視線をやった。


 練習場でマルクが詠唱の型を繰り返している姿が見える。日差しの中、その立ち姿は相変わらず端正だったが、どこか以前より柔らかく見えた。規定通りの節の合間に、何か短い言葉を挟んでいるようだった。風への呼びかけだろうか。あの日からの変化が、今も静かに続いているのが見て取れた。誰に強いられたわけでもなく、彼自身の意志で、その小さな逸脱を重ねているのだろう。


 ヴィナスは書類を一枚ずつ確認しながら、ふと顔を上げた。その視線には、これまでの面談にはなかった、何かを見極めようとするような強さがあった。


「あなたは、この審議に対して、何を望んでいますか」


 その問いには、これまでのヴィナスからは想像できないほどの、踏み込んだ響きがあった。


「規定上の処分を軽くしてほしい、と望んでいますか。それとも、規定そのものに異議を唱えたいと望んでいますか」


 またしても、二択を突きつける、ヴィナスらしい正確な問いだった。


 けれど、その問いの背後に、何か別の意図が滲んでいるのを、アルドは感じ取った。これは単なる事務的な確認ではない。彼女自身が、何かの答えを探しているような問いだった。


 筆談ノートを開く。迷いはなかった。

 机の上で、ペン先がまっすぐに紙へと下りていく。


『できるならば、リトの規定ルールそのものに、異議を唱えたいと思っています』


 ヴィナスはその一文を、長い時間をかけて読んでいた。それから、これまで一度も見せたことのない表情で、静かに口を開いた。視線がわずかに揺れ、窓の外へと向けられる。


「私は、副学院長になる前、十五年間、リトシステムの算定部門で働いていました」


 唐突な告白だった。アルドは筆談ノートから顔を上げ、ヴィナスを見つめた。算定部門という言葉の響きには、これまで彼女から感じてきた冷静さの源泉が、確かに息づいているような気がした。


規定ルール通りに処理しながら、規定ルールが見ていないものがあるのではないか、と」


 その声には、これまでの平坦さとは違う、何かを押し殺すような震えがあった。

 

 十五年もの間、彼女は数字の羅列の裏側に、何かが欠けていることを感じ続けていたのだろう。だけれど、それを言葉にすることは、自分の仕事そのものの正当性を揺るがすことに等しかった。だから、問わずにいた。毎日、毎日、同じ作業を繰り返しながら、心の奥底に芽生えた違和感に、蓋をし続けてきたのだろう。


「あなたとノエル・ブライトガーデンの記録を見たとき、私は、長年問わなかったことを、初めて問わざるを得なくなりました」


 ヴィナスは机の上の書類に視線を落とし、それから再びアルドを見た。


規定ルールが見ていないものを、委員会の場で、誰かが言葉にする必要があるとも思っています」


 その一言に、アルドの胸がざわついた。だが、続く言葉に、彼は息を呑んだ。


「ですが、フォルク教授であれば、可能かもしれません」


 規定ルールの番人としての立場を崩すことなく、ヴィナスはそれでも確かな道筋を示していた。自分では踏み込めない一線を、別の誰かに託すという形で。フォルクの研究室で見た、あの静かな揺らぎが、ヴィナスの言葉の中で、もう一つの輪郭を結んでいくのをアルドは感じた。


 二人は同じ規定の番人でありながら、それぞれ別の重さの沈黙を抱え続けてきた。その二つの沈黙が今、同じ一点に向かって動き始めている。アルドにはそれが、はっきりと見えた気がした。


「あなたの判断が、規定ルールよりも正しかった可能性を、私は否定していません」


 最後にそう付け加えられた一言は、これまでヴィナスが口にしたどんな言葉よりも、深いところに届いた。


 アルドは何も書けなくなった。書くべき言葉が見つからないのではなく、目の前の人物が見せた変化の重みに、ただ言葉を失っていた。三十年前のフォルクと、十五年間のヴィナス。誰にも語られなかった二つの沈黙が、今、初めてアルドの前で姿を現していた。


 窓の外では、マルクの詠唱の声が、相変わらず途切れることなく続いていた。規定の型の合間に挟まれる、ほんの小さな逸脱の言葉とともに。風がその声を運び、研究室の窓を軽く揺らしていく。


 面談は、それで終わりだった。アルドは立ち上がり、一礼して部屋を出た。冷たいはずのその部屋に、今日だけは、ほんのわずかな温かさが残っているような気がした。

 

 廊下に出ると、初夏の光が眩しく差し込み、アルドの足取りを静かに照らしていた。


     * * *


「規定の番人は、規定を疑わない人間ではなかった。

 規定を疑いながら、規定を守ることを選んだ人間だった」

―― アルド、副学院長室を出て

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