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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第67話 フォルクの沈黙

 アルドはフォルクの部屋を訪ねた。フォルクの研究室を訪れるのは、これが初めてではなかったが、随分と久しぶりだった。


 アルドの旧棟の研究室と似て、棚という棚に古い書物がぎっしりと詰め込まれ、床にまで積み上げられた書類の山が、長年の在籍を物語っている。


 三十二年。フォルクがこの学院に身を置いてきた歳月の重みが、部屋の隅々にまで染み込んでいるようだった。窓際には、年代物と思しき天球儀が置かれ、埃をかぶったまま静かに佇んでいた。


「珍しいな、お前がここに来るとは」


 フォルクは書架の前に立ったまま、振り返らずに言った。アルドは扉のところで立ち止まり、それから一歩、二歩と部屋の中へ進んだ。


 マルクの変化を見届けた帰り道、アルドの中にはずっと一つの疑問が燻り続けていた。研究室で記録の山を前にしたあの日、フォルクが見せた「そうか」という短い相槌。あれは何かを確認した声だった。何を確認したのか、何が腑に落ちたのか、アルドはその理由を、まだ本人から聞いていなかった。何日も考えた末、ようやく自分から尋ねる決心がついたのだった。


 筆談ノートを開く。ペン先が、迷いながらも紙の上を滑り出す。


『あのとき、なぜ「そうか」と言ったのですか』


 フォルクは振り返り、その文字をしばらく見つめていた。それから、近くの椅子を引き寄せ、どさりと腰を下ろす。長い沈黙の末、ようやく口を開いた。


「私も、若い頃はリトの規定ルールに疑問を持っていた」


 その声には、これまで聞いたことのない種類の重みがあった。


「今のお前と、同じようなことを考えていた」


 アルドは息を呑んだ。フォルクが規定に疑問を持っていたという事実は、これまで一度も語られたことがなかった。


「三十年前のことだ。当時の学院長――ヴィナスの先代に当たる人物から、リトシステム制定当時の議事録を見せられたことがある」


 フォルクは窓の外に視線を移しながら、過去を手繰るように語り始めた。記憶の奥底から、慎重に言葉を選び出しているような口ぶりだった。


「議事録には、神霊について一行も触れられていなかった。完全に、人間側の都合だけで作られた制度だった」


 三百年以上前、当時の高位魔術師たちの暴走と権力闘争を抑え込むための制度。神霊への配慮など、最初から議題にすら上っていなかったのだという。


 アルドはその事実を、改めて突きつけられたような感覚を覚えた。設定としてどこかで聞きかじっていたことが、今、フォルクという確かな証言者の口から語られている。長年その制度の中で暮らしてきた人間の口から、その出自を聞かされることの重みは、想像していた以上のものだった。


「私は、リトシステムの規定ルールの見直しを提案した。だが、棄却された」


 フォルクの声は淡々としていたが、その奥には、三十年という歳月をかけてようやく形になった諦念が滲んでいた。当時の自分がどんな言葉で訴えたのか、もう細部までは覚えていないのだろう。ただ、棄却されたという結果だけが、三十年間、変わらずに彼の中に残り続けていた。


『そのあとは……知っていて、何もしなかったのですか』


 アルドは、自分でも驚くほど率直な言葉を書いていた。容赦のない問いだという自覚はあった。それでも、書かずにはいられなかった。フォルクはその一文を見て、小さく笑った。自嘲とも、納得ともつかない笑みだった。


制度ルールの目的が達成されているなら、その制度がどんな理屈で作られたかは、誰も気にしない。そういうものだ」


 その言葉は、まるで物語全体の根底に横たわる何かを、静かに言い当てているようだった。暴走を抑えるという目的が達成されている限り、その制度がどれほど神霊の意志を無視していようと、誰も問題視しない。


 アルドはペンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。窓の外では、夕暮れに近づいた光が、書架の影をいっそう長く伸ばしていた。


 フォルクは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。夕暮れに近い光が、その背中を薄く照らしている。


「私が三十年前に持っていなかったものを、お前たちは持っている」


 振り返ったフォルクの目には、これまでにない真剣さが宿っていた。


「四十二件の記録。九割を超える超過率。そして、精霊が喜んでいたという証言」


 フォルクはその数字を、まるで宝物でも扱うかのように、ゆっくりと口にした。


 三十年前のフォルクの提案には、確たる証拠がなかった。ただの正論、ただの疑問。それだけでは、制度という巨大な器を動かすことはできなかった。だが今、アルドとノエルが持っているのは、数字と証言という、覆しようのない事実だった。


「何もしないままでは、いられないかもしれない、とは思っている」


 その一言は、宣言というには控えめで、決意というにはまだ曖昧だった。

 けれど、長年規定に何も疑問を挟まずにいたフォルクの口から出た言葉としては、確かな重みを持っていた。三十年という沈黙の年月を経て、ようやく芽吹いた小さな兆しだった。


 アルドは筆談ノートを閉じた。書くべき言葉はもう、見つからなかった。


 ただ、目の前に座る男の中で、何かが静かに動き始めたことだけが、はっきりと感じられた。長く規定の番人として在り続けてきた人物の中に、わずかな揺らぎが生まれている。それがどんな形で結実するのか、今のアルドにはまだ見当もつかなかった。


 部屋の窓から差し込む光が、積み上げられた書類の山に長い影を落としていた。フォルクはそれ以上何も言わず、ただ静かに、窓の外の夕焼けを見つめ続けていた。アルドもまた、その横顔を眺めながら、しばらくの間、言葉を探すこともせず、ただその沈黙に付き合っていた。


     * * *


「沈黙には、何もしない沈黙と、

 まだ何をすべきか分からない沈黙がある。

 フォルクの沈黙は、

 今、後者に変わろうとしているのかもしれない」

―― アルド、フォルクの研究室にて

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