第66話 任意節の話
学院中庭の練習場には、午後の柔らかな光が満ちていた。
あの研究室での日から三日間、ノエルはあの日のことを噛みしめるように、いつも通り過ごしていた。怖がって詠唱を控える様子は、欠片もなかった。むしろ、これまで以上に自然体で精霊たちと向き合っているように、アルドの目には映っていた。卒業審査委員会という重い影を背負いながらも、彼女の足取りは少しも揺らいでいない。
練習場の端で素振りのような型を繰り返していたマルクのもとへ、ノエルがまっすぐに歩み寄っていく。アルドは少し離れた木陰から、その様子を見守っていた。マルクの詠唱は今日も寸分の狂いもなく、教本そのもののような正確さだった。だが、その完璧さの中に、何かが欠けているということを、今この場にいる誰もがまだ言葉にできずにいた。
「マルクさん」
声をかけられ、マルクが手を止めた。額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「任意節の話、聞きたいですか」
唐突な切り出しだった。マルクはわずかに眉を寄せたが、何も言わずに頷いた。
中庭のベンチで交わした約束を、彼もまた覚えていたのだろう。
「人間が『省略してもいい』って決めたことを、精霊は知らないんです」
ノエルは、アルドから教わったままの言葉を、自分の中で噛み砕いてから口にしていた。
「精霊には、なんか、足りない感じがするんじゃないかって。私は、そう思ってます」
マルクの表情が、わずかに強張った。
「……俺の詠唱が、足りないと?」
反発するような響きだった。
けれど、それは怒りというより、長く抱え続けてきた何かが、不意に揺さぶられたことへの戸惑いに近かった。
マルクの拳が、知らず知らずのうちに固く握られていた。ノエルは慌てて首を振ろうとしたが、マルク自身が先に言葉を継いだ。
「俺は、規定通りに、完璧に詠唱した。手続きに、間違いはなかった」
独り言のような、自分自身に言い聞かせるような声だった。
かつて、ガイアスへの単独詠唱――右腕の感覚を一時失ったあの日のことを、マルクはこれまで誰にも詳しく語ったことがなかった。テノアの代償として処理し、それ以上深く考えることを、自分自身に禁じてきたのかもしれない。そしてしばらくの沈黙の後、マルクはぽつりと続けた。
「実際は、違ったかもしれない、ってことか」
その一言には、これまでのマルクからは想像できないほどの、静かな揺らぎがあった。
アルドは木陰から、その変化を息を詰めて見つめていた。
ガイアスへの単独詠唱で右腕の感覚を失った、あの代償。マルクはずっと、それをテノアの仕組みとして処理してきたはずだった。だが今、彼はその出来事を、初めて違う角度から見つめ直そうとしている。
「……試してみたい」
マルクは拳を握りしめながら、独り言のように呟いた。
「任意節を、入れて詠唱したら、どうなるか」
ノエルは何も言わず、ただ静かに頷いた。
急かす言葉も、期待を煽る言葉もなかった。マルクは深く息を吸い込み、目を閉じる。長年、寸分の狂いもなく規定通りに紡いできた詠唱の型を、彼は今、自ら崩そうとしていた。
風が、中庭を吹き抜けた。マルクの周りの空気が、わずかに張り詰める。これまで何百回と繰り返してきた規定の型ではなく、自分自身の言葉で、何かを呼びかけようとしていた。
「……風よ」
たった三文字の呼びかけだった。技巧も装飾もない、ただの一言。だが、マルクにとっては、これまでの人生で一度も口にしたことのない種類の言葉だった。
風が、わずかに渦を巻いた。大きな螺旋ではない。ほんの小さな、それでも確かに意志を持った揺らぎだった。
マルクは目を見開いたまま、しばらく動かなかった。風の余韻が、まだ彼の周りに漂っているかのようだった。
「……何か、聞こえた、気がする」
声には、確信ではなく、戸惑いに近い響きがあった。だが、その戸惑いの奥に、これまで彼が一度も感じたことのなかった何かが、確かに芽生えているのがわかった。
マルクはノエルの方を向き、短く頭を下げた。
「……ありがとう」
感情を込めすぎない、それでいて、確かな重みを持った一言だった。ノエルは少し驚いた様子で目を見開き、それからふわりと笑った。
「よかったです」
彼女は両手を胸の前で軽く握り、心からそう言った。
「マルクさん、変わるかもしれませんね」
マルクは何も答えなかった。だが、その沈黙は否定ではなく、まだ言葉にできない感情を抱えているだけのように見えた。
ノエルはそれ以上踏み込まず、ただ穏やかに続けた。
「急がなくていいと思います。私も、すぐには分からなかったので」
その言葉に、マルクの肩からわずかに力が抜けるのが、傍目にもわかった。
素振りの型に戻ろうとした彼の背中は、先ほどまでとは少しだけ違って見えた。完璧であることに縛られてきた肩の力みが、ほんのわずかに緩んだようだった。
木陰に立つアルドは、その一部始終を、声を挟むことなく見守っていた。
割り込むべき場面ではないと、彼は静かに判断していた。
これは自分が手を貸すべき瞬間ではなく、ノエルとマルク、二人だけのものだ。
リトの枷のルーンは、今日も何の反応も示さない。
マルクのテノアの変化は、アルドの管理が及ぶ範囲の外にあった。
だが、それでもアルドの胸の中には、確かな温かさが広がっていた。
風がもう一度、練習場を吹き抜けていく。
木々の葉がさざめく音に混じって、マルクの「何か、聞こえた、気がする」という一言が、その風に乗って、いつまでもアルドの耳に残っていた。
* * *
「聞こえたかもしれない、という言葉は、
聞こえなかった、という言葉より、
ずっと長い距離を旅してきた言葉だった」
―― アルド、練習場の木陰にて




