第65話 ノエルに伝える日
研究室の机の上には、昨日もらったハーブの包みがそのまま置かれていた。
井戸の村の老婦人が、喉に良いからと持たせてくれたものだ。包み紙の端が朝の光を受けて、淡い影を作っている。
アルドはその包みを一瞥し、それから視線を、向かいの椅子に座るノエルへと移した。彼女はいつも通り、何の構えもなく座っていた。今日がどんな日になるのか、まだ何も知らないままに。
今日こそ、伝えなければならない。四日間、先延ばしにし続けてきたことだった。フォルクの「今日くらいは」という言葉に甘え、井戸の村の指名に救われ、それでも結局、伝える機会を自分から避け続けていた。これ以上は、もう猶予がない。窓の外から差し込む朝の光が、いつもより重く感じられた。
アルドは筆談ノートを開いた。ペン先が、これまでで一番長い沈黙を経て、ようやく動き出す。何度も書きかけては消し、消してはまた書き直した跡が、ノートの余白にうっすらと残っていた。
『ヴィナス副学院長が、旅の間の私たちの詠唱記録を、すべて閲覧しました』
ノエルの表情が、わずかに強張った。アルドはもう一行、書き加える。
『記録は、四十二件。そのうち三十八件で、節数の超過、あるいは規定にない言葉が確認されています』
さらに、もう一行。
『この結果は、来月の卒業審査委員会に、報告書として提出されます』
ノエルはしばらく、その三行をただ見つめていた。手元の指先が、わずかに白くなるほど強く握りしめられている。やがて、震えるような声が漏れた。
「……三十八件。それって、私が間違えた回数、ってことですか」
声には、戸惑いと、わずかな怯えが滲んでいた。彼女は指折り数えるように、口の中で何かを呟いている。視線が机の上のノートと、アルドの顔の間を、何度も行き来していた。
「ほとんど、毎回じゃないですか」
アルドは何も書けなかった。否定する材料も、慰める言葉も、今はまだ持っていなかった。ペンを握る手が、わずかに止まったままだった。ノエルは膝の上で手を握りしめ、まっすぐにアルドを見つめた。
「師匠は、知ってましたか。私が、そんなに間違えてること」
膝の上で組んだ手に、力がこもっていた。その問いに、アルドは静かに頷いた。隠すという選択肢は、もう残されていなかった。
「……なんで、止めてくれなかったんですか」
責める声ではなかった。むしろ、自分でもどう受け止めればいいのかわからない、混乱した問いだった。アルドはペンを取り、これまでの旅のすべてを思い返しながら、一文字ずつ刻むように書いた。
『止める理由がなかったのは、あなたの詠唱を、精霊たちが喜んでいたからです』
ノエルがその文字を見つめる。アルドはもう一行、続けた。
『一度も、例外はありませんでした』
ノエルの目に、わずかな潤みが浮かんだ。だが、彼女はそれを堪えるように、唇を結んだ。
「リトの規定は、間違えたって言うけど。精霊は、間違えてないって言ってる、ってことですか?」
その言葉は、あの学院の中庭でノエル自身が辿り着いた問いの、さらに先にあるものだった。アルドは黙って頷く。ノエルはもう一度、今度はより切実な声で問うた。
「どっちを、信じたらいいんでしょうか」
研究室の中に、長い沈黙が落ちた。
窓の外では、いつも通りの朝の光が降り注いでいる。
書架の隙間から差し込む光の筋が、二人の間の床に細く伸びていた。
アルドはペンを握りしめ、自分の中にある、十年分とそれ以降の数か月分の答えを、慎重に紙の上へと移していった。
十年前の自分なら、この問いにどう答えただろうか。きっと何も答えられなかったはずだ。規定は規定だと、それだけを口にしていただろう。
『あなたの、あなた自身の紡ぐ言の葉を、信じてください』
迷いのない一行だった。
十年前、規定に一度も疑問を持たなかった自分には、決して書けなかった言葉だ。アルドはさらに続けた。
『リトシステムがどう判断しようと、精霊たちがどう応えたかは、消えません』
ノエルはその答えを、何度も何度も読み返していた。やがて、小さく息を吐き出す。
「……怖くない、って言ったら、嘘になります」
正直な告白だった。
アルドはその言葉を、否定しなかった。
怖さを抱えたまま前を向くことの方が、何も恐れずにいるよりも、よほど確かな強さなのだと、彼は知っていた。
ノエルはしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
その目には、もう先ほどの戸惑いはなく、代わりに静かな決意のようなものが宿っていた。
窓からの光が、彼女の頬を柔らかく照らしている。
「精霊たちが喜んでくれてたなら、私、後悔はしてないです」
声は震えていたが、芯はまっすぐだった。
「間違えた回数より、喜んでもらえた回数の方が、ずっと多かった気がするので」
アルドは、胸の奥が熱くなるのを感じた。旅の間、何百回となく見てきた光景――風が踊り、土地が応え、精霊たちが声にならない声で笑った瞬間――それらすべてを、ノエルは数字の重さに押しつぶされることなく、自分の実感として抱きしめていた。
アルドはペンを取り、最後の一行を書いた。
『ただ、私はあなたの隣にいます』
飾り気のない、短い言葉だった。だがその短さの中に、これまで言葉にできなかった想いのすべてが込められていた。
規定でも、精霊の声でもなく、ただ自分自身の選択として、アルドはそう書いた。ノエルはその文字をしばらく見つめ、それから、ようやく小さく笑った。涙の滲んだ、けれど確かな笑顔だった。
「ありがとうございます、師匠」
短い一言だったが、その声には、先ほどまでの怯えも戸惑いも、もう残っていなかった。
机の上のハーブの包みに、朝の光がまた一筋、差し込んでいた。
重い話の合間に、何でもない日常の小道具がそこにあることが、二人の間の空気を、ほんの少しだけ和らげていた。
* * *
「規定と精霊、どちらを信じるか。
あの子は迷わなかった。迷ったのは、私の方だった」
―― アルド、その日の研究室にて




