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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第64話 はじめての指名依頼

 学院食堂の朝は、いつも通りの喧騒に包まれていた。


 長机に並ぶ皿の音、学生たちの笑い声、焼きたてのパンの匂い。


 だが、アルドの胸の内だけは、三日前から変わらず重いままだった。

 卒業審査委員会への報告。

 来月、ノエルの卒業審査の場に並ぶことになる超過記録。

 まだ、何一つ伝えられていない。


 窓の外の青空がやけに眩しく、その明るさが今のアルドには少しだけ眩しすぎた。


「アルド」


 フォルクが向かいの席に腰を下ろした。手にした書簡を軽く掲げる。


「依頼だ。ノエル・ブライトガーデンが指名されている。村の世話役が、以前一度世話になったと言っている」


 アルドは顔を上げた。


 指名。

 通常の依頼掲示とは違う、名指しでの要請だ。


 フォルクはそれ以上多くを語らず、ただ静かにアルドの目を見た。

 その視線には、三日前の面談の内容をある程度察しているような、静かな気遣いが滲んでいた。


「今日くらいは、行ってこい」


 フォルクはそれだけ言うと、席を立ち、いつも通りの足取りで食堂を出ていった。

 

 その一言には、何かを察しているような響きがあった。

 三日抱え続けた重さを、今日だけは少し脇に置いてもいいという、フォルクなりの気遣いだったのかもしれない。


 隣でパンを頬張っていたノエルが、興味津々といった様子で身を乗り出した。


「指名って、誰からですか?」彼女は目を輝かせ、興味深そうに尋ねた。


「井戸の村だ。前に行った場所だろう」と話を聞いていたレイが言う。


 ノエルの表情が、ぱっと明るくなった。


「嬉しそうだな」


「指名されたから、です。前は通りすがりでしたけれど、今度は、ちゃんと、私だから来てほしいって言われた気がして」


 誰に説明するでもなく、彼女は自分の中で噛みしめるようにそう呟いた。

 アルドはその横顔に、いつもとは少し違う種類の輝きを見た。


     * * *


 街道は、初夏の陽射しに照らされていた。


 先日と同じ道を、二人は並んで歩く。道端の草花は前に通った時よりも勢いを増し、夏の気配を濃く滲ませていた。


 ノエルはいつもより口数が少なかった。


「前回より、緊張します」


 ぽつりとそう言って、彼女は自分の手のひらを見つめた。


「通りすがりで助けたのと、指名されて行くのとじゃ、ぜんぜん違うんですね。期待されてる、っていうのか……」


 アルドは小さく頷いた。

 指名という言葉の重みを、彼女は今、初めて実感しているところなのだろう。


 歩きながら、アルドは内心で考えていた。

 期待に応えるという感覚を、ノエルはまだ恐れではなく、まっすぐな喜びとして受け止めている。その純粋さがノエルらしかった。


     * * *


 井戸のある村に着いたのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。


 以前世話になった村の老婦人が、待ちかねたように出迎えてくれる。

 皺の刻まれた顔いっぱいに、隠しきれない喜びが浮かんでいた。


「よく来てくれた。実はね、井戸の掃除をしていた息子が、新しいものを見つけたんだよ」


 老婦人が案内したのは、井戸の脇にひっそりと佇む、小さな石の祠だった。

 苔むした表面には、長い年月を経た跡が刻まれている。

 誰にも気づかれることなく、ずっとそこに在り続けていたのだろう。


「土の精霊様の祠らしくてね。誰も気づかずに、ずっとここにあったみたいで」


 ノエルはその祠の前にしゃがみ込み、しばらく無言で見つめていた。それから、詠唱の型を取ることもなく、ごく自然な調子で口を開いた。


「ありがとうございます。今もちゃんと、ここにいてくれて」


 規定にも、詠唱の作法にも当てはまらない、ただの言葉だった。

 だが、祠の周りの空気が、わずかに和らいだ気がした。


 その瞬間、アルドの傍らに、ふわりとレイの気配が立った。光の粒のような輪郭が、夏の日差しの中で揺らめいている。


「あの子の場合、必要ないこともある」


 レイの声は、いつもどおり軽やかだった。


「さっきの『ありがとうございます』、ちゃんと届いてたよ」


 アルドは息を呑んだ。詠唱という形式を取らずとも、精霊に届く言葉がある。

 ノエルと神霊たちの関係は、もしかすると、節や型といった枠組みそのものを超えたところにあるのかもしれない。


 井戸の水は、まだ少し濁っていた。ノエルは立ち上がり、短く一節だけの詠唱を紡いだ。澄んだ声が水面に触れた瞬間、井戸の底から透き通った輝きが広がり、水は完全に澄み切った。村の子供たちが歓声を上げながら、井戸の周りに集まってくる。


「ありがとうねえ、本当に」


 老婦人が涙ぐみながら、何度も頭を下げた。

 皺の刻まれた手で、ノエルの手をしっかりと握りしめる。

 ノエルは照れくさそうに笑い、その様子をアルドはただ静かに見守っていた。


     * * *


 帰路は、夕暮れの色に染まっていた。

 空の端が橙色から紫へと移り変わっていく中、ノエルは満足げな足取りで歩いていた。


「師匠、また指名があったら来てもいいですか」


 ふと立ち止まり、振り返ってそう尋ねる。アルドは筆談ノートを開く間もなく、迷いなく頷いた。


「約束ですよ」


 ノエルは小さく笑い、また前を向いて歩き出した。

 その背中を見ながら、アルドの胸の中には、温かさとためらいが同時に滲んでいた。


 指名されるということの重さ――それは喜びだけではなく、期待され、信頼され、いつか失望させるかもしれないという責任の重さでもある。

 彼女はまだ、その裏側を知らない。知らないまま、ただ純粋に喜んでいる。


 卒業審査委員会のことを、今日もまだ伝えられなかった。


 三日が経ち、四日目になろうとしている。

 いつかは伝えなければならない。

 けれども、夕陽に照らされたノエルの笑顔を見ながら、アルドは胸の中でそっと呟いた。もう少しだけ、このままにしておきたい、と。


 空の橙色が次第に深い藍へと変わっていく中、二人と一羽の影は学院への道を、長く長く伸ばしていた。


     * * *


「指名される、ということの重さを、彼女はまだ知らない。

 知らないまま喜んでいる顔を、もう少しだけ、このままにしておきたかった」

―― アルド、夕暮れの帰路にて

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