第63話 報告書閲覧の結果
副学院長室は、相変わらず学院の他の部屋よりも温度が低いように感じられた。
マルクとの中庭での会話から、三日が経っていた。
窓の外では初夏を思わせる強い光が差しているのに、この部屋の空気だけは変わらず冷ややかだった。壁一面の書架と、整然と並んだ書類の山。砂時計と古い天秤は、今日も同じ位置に置かれたまま動かない。
「アルド教授。お座りください」
ヴィナスは机の向こうから、いつもと同じ平坦な声で言った。アルドは促されるまま椅子に腰を下ろす。
机の上には、見覚えのある書類の束が積まれていた。フォルクが懐から取り出した、あの旅中の詠唱記録だ。三日かけて読み込まれたのだろう。紙の端には付箋と思しき細い紙片が、幾つも挟み込まれていた。一枚一枚に、几帳面な文字で何かが書き込まれているのが見える。
「ノエル・ブライトガーデンの旅中の詠唱、全四十二件。そのうち三十八件でリトシステムの規定上での節数超過、あるいは規定外の文言が確認されました」
ヴィナスは書類を一枚ずつめくりながら、淡々と読み上げる。アルドは黙ってその声を聞いていた。
「超過率、九割を超えています。これは、学院史上でも極めて稀な数字です」
数字そのものに、アルドは驚かなかった。むしろ、当然だと思った。
あの旅で、ノエルが規定通りに詠唱を終えたことなど、数えるほどしかなかったはずだ。風が喜び、土地が応え、精霊が声にならない声で笑った瞬間の一つ一つが、この書類の上では「超過」という一語に押し込められている。
ヴィナスは書類を机に置き、初めて顔を上げてアルドを見た。
「アルド教授。私が知りたいのは、一つだけです。あなたは、なぜこれを止めなかったのですか」
その問いには、責める響きも、咎める響きもなかった。ただ、純粋な疑問として、まっすぐにこちらへ向けられていた。アルドは筆談ノートを開いた。ペン先が紙の上で一瞬止まり躊躇い、けれど意を決してふたたび動き出す。
『止める理由が、私にはありませんでした』
ヴィナスはその文字をしばらく見つめ、それから小さく首を傾げた。
「理由がない、というのは。リトシステムの判定に反していることを、知らなかったという意味ですか。それとも、知っていて止めなかったという意味ですか」
二択を突きつけるような、正確な問いだった。
逃げ道を塞ぐような言い方ではなく、ただ事実を一つに絞ろうとする、ヴィナスらしいやり方だった。アルドは長い沈黙の後、ペンを動かした。
『知っていて、止めませんでした』
正直な一行だった。書いた瞬間、アルドの中で何かが軽くなり、同時に何かが重くなった。これまで誰にも、はっきりと口にしたことのない事実だった。
ヴィナスはその文字を読み、ペンを置いた。窓の外の光が、彼女の白いローブの襟元の金の縁取りに反射していた。
「あのとき、あなたは規定について、何か質問をしましたか」
唐突な問いだったが、アルドにはすぐにわかった。
十年前のことだ。規定改正の説明会。当時まだ教授として学院で教鞭を振っていたアルドが、学院の会議室で、改正された規定の説明を一方的に聞かされていた、あの日のことを指していた。
あの頃の自分は、規定とは守るべきものであり、疑うべきものではないと信じて疑わなかった。質問という発想そのものが、頭の中に存在していなかった。
アルドは何も書かなかった。書く必要がなかった。あのとき自分が何も問わなかったことを、ヴィナス自身がすでに知っているのだろう。これは質問ではなく確認だ。
彼女の記憶力か、あるいは記録の精度か、どちらにせよ、十年という歳月を一瞬で跨いでくるその問いに、アルドは内心でわずかな戦慄を覚えた。
「では、今は?」
短い問いだった。
だが、その短さの中に、十年という歳月の重みが込められていた。
アルドはペンを取り、今度は迷わずに書いた。
『規定は、規定でした。それ以上、問う理由がありませんでした』
そしてもう一行。
『今は、問う理由ができました』
ヴィナスはその二行を、長い時間をかけて読んでいた。何かを評価するというよりも、何かを確かめるような目だった。十年前のアルドと、今のアルド。同じ人物の中に生まれた変化を、彼女は数字の羅列の中からではなく、目の前の二行から初めて読み取ったのかもしれなかった。
「これだけの超過件数を、規定の例外として黒板の下に隠すことはできません」
ヴィナスは書類を揃え、その表紙に手を置いた。
「今期の卒業審査委員会に、報告書として提出されます」
アルドの胸の奥が、ひやりと冷えた。
「卒業審査は、来月です」
来月。いよいよだ。
ノエルの卒業審査が行われるはずのその場に、この超過記録が報告書として並ぶ。
アルドはまだ、そのことをノエルに何も伝えていない。
たぶん、彼女は今頃、図書室で写本作業に没頭しているか、中庭で風と話しているか、そのどちらかだろう。何も知らないまま。
「アルド教授。あなたの判断を、私は否定していません」
ヴィナスの声が、わずかに和らいだように聞こえた。だが、それは慰めではなかった。
「ただ、この学院の規定は、あなたの判断では動きません」
その一言が、部屋の冷たさをそのまま体現していた。
個人としての理解と、制度としての処理。その二つが同じ人物の中で、矛盾なく同居している。ヴィナスは敵ではない。ただ、規定という器に、誰よりも忠実なだけだった。
面談は、それで終わりだった。アルドは立ち上がり、一礼して部屋を出た。
廊下に出ると、初夏の光が眩しく目を刺した。
三日前まで何の動きもなかった静けさは、たった今、確かな形を持って動き出した。卒業審査委員会という名の、新しい山場が。アルドは長い廊下を、一人でゆっくりと歩いた。
ノエルに、いつ、どう伝えるべきか。
あるいは、しばらくの間、自分一人の中に抱えておくべきか。
答えは出なかった。
彼女の「かわいそうですね」という笑い方を思い出す。
あの笑顔の裏に、この重さをそのまま乗せていいのか、アルドにはまだ判断がつかなかった。
窓の外では、何も知らない学生たちの声が、いつも通り遠く響いていた。
* * *
「規定は、私の判断では動かない。
それを十年前に知っていれば、
今、こんなに重く感じなかったかもしれない」
―― アルド、副学院長室を出た廊下にて




