第62話 任意節って、なんですか?
マルクの背中が回廊の向こうに消えてからも、中庭には静けさがしばらく残っていた。風が花壇の花びらを一枚、ベンチの足元まで運んでくる。
ノエルはそれを指先でつまみ上げ、しばらく眺めてから、ふと顔を上げた。春の終わりの陽射しは、すでに夏の気配を少しずつ含み始めている。
「師匠、あの……任意節って、なんですか?」
唐突な問いだった。だが、アルドにはその唐突さの理由がよくわかっていた。マルクの「俺には聞こえない」という言葉、ヴィナスが面談で口にした「任意節」という用語――それらが、ノエルの中でずっと引っかかっていたのだろう。心の中で何周も転がして、今ようやく言葉として形になったのだろう。
「なんで任意なんですか。必須じゃないんでしょうか」
ノエルは膝の上で手を組み、まっすぐにアルドを見ていた。
誰かに教わったからではなく、自分の詠唱の実感から湧き上がった疑問であることが、その目の強さでわかった。
アルドは筆談ノートを開いた。何をどこまで書くべきか、一瞬迷いが走る。
任意節の公式見解――学院規定が定める分類――を書くだけなら簡単だった。
けれども、それだけでは、本当のことを伝えたことにはならない。ペン先が紙の上で止まり、それからゆっくりと動き出した。
『古代詠唱においては、それらの節は必須だったのです』
ノエルがその文字を覗き込む。アルドはもう一行、続けた。
『現代のリトシステムの規定が”任意”と分類したのは、効率化のためです』
さらにもう一行。
『ただし、精霊の側に、その分類は関係がないのだと思います』
ノエルは三行の文字を、何度も読み返した。
その間に、風がもう一度、二人の間を通り抜けていく。
「効率化……」彼女はその言葉を口の中で転がすように呟いた。「それは……人間の都合、ってことですか?」
アルドは小さく頷いた。それから、もう一段深いところまでペンを進めた。窓から差し込む光が、ノートの紙面に淡い線を引いていた。
『精霊にとっては、三百年前も今も、呼びかけと讃美は詠唱の一部です。人間が「省略してもいい」と決めたことを、精霊は知りません』
ノエルはしばらく、その文字を見つめたまま動かなかった。
やがて、彼女の中で何かが静かに繋がっていく様子が、表情の変化として現れた。
「……じゃあ、規定通りに詠唱したら、精霊には、なんかもの足りない感じがする、ってこと?」
アルドは息を呑んだ。声には出ない、
ただの呼吸の変化だったが、その問いの正確さに、彼は内心で驚きを隠せなかった。旅の間、何度も何度も感じてきたことを、言葉にできずにいたことを、ノエルはたった今、自分の力で言い当てていた。
あの場で、十二節の詠唱を経験した者だけが辿り着ける場所に、彼女は迷いなく足を踏み入れていた。
『そう思います』
アルドは静かに書いた。
『ただし、それを学院の規定は知りません。リトシステムは、精霊の感覚を記録していないので』
ノエルはその文字を読み終えると、ふっと小さく笑った。怒りでも悲しみでもない、いつもの彼女らしい笑い方だった。
「かわいそうですね、やっぱり」
「やっぱり」という一言に、アルドは深く考えさせられる。
それは、選抜の翌日に彼女が口にした言葉と同じだった。あのとき芽生えた認識が、今日また同じ形で積み重なっている。一度きりの気づきではなく、ノエルの中に少しずつ根を張り始めている考えなのだと、アルドは静かに理解した。
しばらくの沈黙の後、ノエルが何かを思いついたように顔を上げた。
「マルクさんに、この話、してもいいですか」
その声には、迷いと期待が半分ずつ混じっていた。アルドはペンを持つ手を止め、少し考えてから、ゆっくりと文字を綴った。
『今すぐには必要ないでしょう――そう、マルクが聞きたいと思ったときに、話してください』
ノエルが眉を寄せる。アルドはもう一行付け加えた。
『今日の話は、マルクが自分で聞きに来ました。それを待ちましょう』
ノエルはその言葉を、噛みしめるように何度か読み返した。それから、小さく頷いた。
「……いつか話せたらいいな」
価値観の押しつけではなく、相手がそれを受け入れるときを待つという選択。
アルドはその横顔を見ながら、内心でマルクのことを考えていた。
問い方を知らないのか、問うべき相手を知らないのか、それとも――答えを聞くことそのものが、怖いのか。
あの疲れた頬の輪郭の奥に、どんな迷いが渦巻いているのか、アルドにはまだ推し量ることしかできなかった。
学院で最も完璧な詠唱を誇る男が、自分の中の空白に気づいてしまった日。
その空白を埋める言葉を、彼自身がまだ持っていないのだろう。
* * *
二人は連れ立って図書室へと戻った。
扉をくぐると、午後の光がさらに角度を変えて、書架の間に長い影を落としている。
ノエルは元の席に腰を下ろし、写本作業の続きに取りかかった。
羽根ペンが紙の上を滑る、規則正しい音がすぐに戻ってくる。
古い羊皮紙の匂いに包まれながら、彼女はもう先ほどまでの会話を引きずる様子もなく、目の前の作業に意識を戻していた。
アルドは戸口に立ったまま、しばらくその背中を眺めていた。
任意節の話を聞いた直後だというのに、ノエルの手元には迷いがなかった。
ノエルは彼女なりのやり方で、すでにこの世界と向き合う術を持っているのだろう。
リトシステムの持つ規定が知らないことを、精霊が知っていることを、誰よりも自然に受け止めながら。怒らず、嘆かず、ただ「かわいそう」と笑って受け流せる強さを、彼女はいつの間にか身につけていた。
アルドは静かに踵を返し、図書室を後にした。
扉が閉まる直前、振り返った視界の中で、ノエルはもう古い紙の上に視線を戻していた。
* * *
「呼びかけなければ届かない声がある。
讃美しなければ喜ばない存在がある。
人間がそれを省略と呼ぶとき、精霊はただ、静かに待っている」
―― アルド 学院の中庭にて




