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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第61話 届かない声

 学院図書室は、朝の静けさに包まれていた。


 高い天井まで届く書架の間を、淡い光の筋が斜めに差し込んでいる。

 埃の匂いと、古い羊皮紙の匂いが混じり合った、図書室特有の空気だった。


 ノエルは長机の端に座り、古い詠唱記録の写本作業に没頭していた。

 羽根ペンが紙の上を滑る音だけが、規則正しく響いている。


「この字、ちょっと癖がありますね」


 ノエルは独り言のようにつぶやき、古い羊皮紙に目を凝らした。

 崩れた書体を一文字ずつ丁寧になぞり、清書していく彼女の横顔には、選抜の興奮はもうどこにも残っていなかった。ただ目の前の作業に集中する、いつもの落ち着いた表情だった。


 アルドは少し離れた席で、自分の研究ノートを開いたまま、その実、頭の中ではまったく別のことを考えていた。


 ヴィナスの閲覧申請は、今この瞬間も進んでいる。

 旅中の全ての記録――超過した節数、加算されたテノア、逸脱と判定された詠唱の数々。あの数字の山の向こうに、フォルクに伝えた二行の言葉が届くことはあるのだろうか。

 

 アルドはペン先を紙の上で何度も止め、結局一行も書けないまま、窓の外に目をやった。中庭では、選抜を終えた学生たちが思い思いに過ごす姿が見える。


 四日前、フォルクが研究室を去ってから、何の動きもない。

 静けさが、かえって不穏に感じられた。台帳の奥で、何かが静かに動いているのではないかという予感だけが、アルドの中に薄く残り続けていた。

 

 書架の奥から、別の学生が古い書物を抱えて通り過ぎる足音がする。図書室の時間は、いつもと変わらず緩やかに流れていた。


「師匠、見てください。この節、規定にない言い回しが使われてます」


 ノエルが古文書の一節を指さしながら、興味津々といった様子で見せてくる。

 何百年も前の詠唱士が記した、今では使われなくなった表現だった。

 アルドはその文字を一瞥し、小さく頷いた。規定という枠が、時代によって少しずつ姿を変えてきたのだということを、この古い紙片は静かに物語っていた。


     * * *


 昼過ぎ、ノエルとアルドは中庭のベンチに腰を下ろしていた。

 

 写本作業を終えたノエルが、伸びをしながら大きく息を吐く。

 新緑の匂いを含んだ風が、二人の間を静かに通り抜けていった。

 春の終わりを告げるように、花壇の花がそろそろ散り始めている。


「ブライトガーデン!」


 声をかけられ、ノエルが顔を上げた。少し離れた回廊の柱の陰から、マルクが歩み寄ってくる。その姿を見て、アルドは思わず目を細めた。目の下には薄い疲労の影が落ち、頬の輪郭は去年よりも明らかに細くなっている。選抜での堂々とした立ち姿とは、どこか違う印象だった。


 あの日、マルクは演習場の正面からではなく、廊下側の窓からノエルの詠唱を見ていたのだと、アルドは後になって人づてに聞いていた。


「お前の詠唱。四節目から変わったな」


 マルクは前置きもなく切り出した。ノエルは少し驚いた様子で、それでも素直に頷く。


「あの間、何を聞いていた」


「神霊の……返事を、待っていました。風の精霊が何か言いたそうだったので」


 ノエルはそう答えながら、何でもないことのように小さく首を傾げた。彼女にとっては、ごく自然な行為だったのだろう。

 

だがマルクは、その答えを受けて、しばらく黙り込んだ。ベンチの傍らに立ったまま、視線を地面に落とす。


「俺には聞こえなかった」


 ようやく出てきた声は、低く、抑えられたものだった。


「精霊の声が。聞こえたことが、一度もない」


 ノエルは何も言わなかった。

  アルドも、筆談ノートに手をかけたまま、動かさずにいた。


 マルクの言葉には、責めるような響きも、羨むような響きもなかった。


 ただ、長い間自分の中に抱えていた事実を、今ここで初めて口にしたという、静かな重みだけがあった。学院最高位の詠唱士として誰もが認める実力を持つ彼が、自分の口から告げた告白だった。


 マルクはアルドの方へ視線を移した。


「旅の間、ノエルの詠唱に対する精霊の反応は、どうでしたか」


 その問いには、これまでのマルクからは想像できないほどの、剥き出しの真剣さがあった。


 アルドは筆談ノートを開いた。フォルクに書いたのと同じ言葉が、自然とペン先から流れ出てくる。


『喜んでいました』


 マルクがその文字を見る。アルドはもう一行、書き足した。


『一度も、例外はありませんでした』


 マルクは長い間、その二行を見つめていた。何かを確かめるような、それでいて、もう確かめる必要などなかったかのような、複雑な沈黙だった。風がもう一度、三人の間を通り抜けていく。


「そうか……」


 短い言葉だった。だが、フォルクが口にしたその言葉とは、まるで違う響きを持っていた。あれは何かを確認した声だった。マルクのそれは、何かが決定的に確定してしまった声だった。


 マルクはそれ以上何も言わず、軽く頭を下げて踵を返した。

 回廊の柱の向こうへ、その背中はゆっくりと消えていく。

 今日の彼は、選抜のときのように廊下の窓から覗き見るのではなく、自分から二人に会いに来た。それだけが、わずかな違いだった。


 マルクの姿が見えなくなってから、ノエルがぽつりと言った。


「マルクさん、なんか、寂しそうでしたね」


 怒りでも、同情でもなかった。

 ただ静かに、相手の心の在り処を見つけたような言い方だった。


 アルドはその言葉に、自分には持ち得なかった感度を見た気がした。

 精霊たちがノエルの詠唱を喜ぶ理由が、今、目の前でひとつ、形になった気がした。規定や節数では決して測れない何かを、ノエルはいつも、誰よりも先に見つけてしまう。


 マルクは誰よりも正確に規定を守り、誰よりも美しい発声で詠唱を完成させる。

 けれど、その完璧さの中に、精霊の声は一度も届かなかった。


 優劣ではない、何か別の種類の隔たりが、マルクとノエルの間にはある。


 アルドはそのことを、これまで漠然としか感じていなかったが、今日初めて、はっきりとした輪郭を持って理解した気がした。


 中庭の風が、ベンチに座る二人の間をもう一度通り抜けていった。


 マルクが去っていった回廊の先を、アルドはしばらくの間、黙って見つめ続けていた。あの背中がいつか振り返る日が来るのか、それとも、このまま遠ざかったままなのか。誰にもまだわからなかった。


     * * *


「正しい詠唱とは何か、と問われれば、

 規定を答えるしかない世界がある。

 でも精霊は、規定を読んでいない」

 ―― アルド 学院の中庭にて

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