第60話 報告書
選抜の興奮も落ち着き始めた頃、学院の廊下には日常の足音が戻りつつあった。
あの夜から三日が経っていた。
アルドの研究室には、午後の光が斜めに差し込んでいる。
旅の間にすっかり埃をかぶっていた書架は、戻ってからの数日で少しずつ整えられ、机の上には旅先で集めた草花の標本と、書きかけの研究ノートが並んでいる。
窓の外では、選抜を終えた学生たちの声が遠く響いていた。
扉を叩く音がした。
応える声を持たないアルドが立ち上がるより早く、扉が開く。
「アルド。少しいいか」
扉の隙間から差し込む廊下の光が、その人物の影を長く室内に伸ばしていた。
フォルクだった。
白髪交じりの頭を軽く下げ、断りもなく椅子に腰を下ろす。
長年の付き合いゆえの遠慮のなさだった。
学院の運営側のメンバーを除き、教授連中の中でかなり勤続年数が長い。フォルクはこの建物のほとんどの部屋に断りなく入る権利を、いつの間にか自分で作り上げていた。
アルドが学院教授として教鞭をとっていた頃、二人はよく同じ会議室で意見をぶつけ合った仲だった。声を失った今のアルドに対しても、フォルクの態度はあの頃から少しも変わっていない。それが、アルドにとってはどこか救いのようなものだった。
アルドは頷き、向かいの椅子に座り直した。卓上の標本箱を脇に寄せ、来客のための空間を作る。その仕草には、かつて同じ学院で教鞭を執っていた頃の名残がまだ残っていた。
フォルクはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて懐から一枚の書類を取り出し、机の上に置いた。紙の端には学院の認可印が押されている。
「ノエル・ブライトガーデンの旅中の詠唱記録、ヴィナスが閲覧申請を出した」
アルドの手が、止まった。
「依頼履歴、テノアの加減算履歴。旅の間の記録を、すべてだ。規定上の権限内のことだから、止める理由はない」
フォルクの声には、咎める響きはなかった。ただ、事実を伝える静けさがあった。
アルドは机の上の書類に目を落とす。そこに並ぶのは、超過と逸脱を示す数字の羅列だった。詠唱の節数、テノアの加算月数、評価項目の名称。
台帳という器は、いつもそうやって、起きたことの半分だけを掬い取る。残りの半分――風が喜んで踊った瞬間や、精霊が笑うように応えた瞬間は、どの欄にも書き込まれることがない。
「ヴィナスが何をしようとしているかは、まあ」フォルクはそこで言葉を切り、それ以上は続けなかった。続けないことが、もうひとつの答えのようだった。窓辺の光が、フォルクの皺の刻まれた横顔を照らしている。
沈黙が、室内に落ちた。窓の外で風が吹き、書架の紙片が小さく揺れる音がする。
アルドはその音に、ふと旅先で聞いた風の声を重ねた。
カレン村の畑で、トルネ村の小さな祠で、エルゲ村の井戸端で、風はいつもノエルの言葉に応えていた。土地ごとに違う精霊たちが、それぞれの形でノエルの詠唱を喜んでいた光景が、走馬灯のようにアルドの脳裏を過ぎる。
あの音を、あの光を、台帳に記すことはできない。誰かに伝えようとすれば、言葉はきっと足りなくなる。それでもアルドは、その光景の一つ一つを、自分の中にだけ大切に仕舞い続けていた。
フォルクは机に置かれた書類を指先で軽く叩き、それから視線を上げた。長い眉の下の目が、まっすぐにアルドを捉える。
「一つだけ聞く」
その声には、これまでとは違う重みがあった。長年学院に勤めてきたフォルクが、めったに見せない真剣な目だった。
「あの子の詠唱を聞いていて、精霊たちの反応はどうだった?」
アルドは長い沈黙の後、筆談ノートを開いた。ペン先が紙の上を滑る。書くべき言葉は、すでに彼の中にずっとあったものだった。旅の間、何百回となく見てきた光景――精霊が応え、風が踊り、土地が静かに息を吹き返す瞬間。それらすべてを思い返しながら、彼はペンを動かした。
『みな喜んでいました』
フォルクがその文字を見る。アルドはもう一行、書き足した。
『一度も、例外はありませんでした』
その一文を、フォルクはしばらく黙って見つめていた。台帳に記録された数字のどこにも、この言葉は存在しない。超過と逸脱として処理された節々の裏側に、こんな単純な事実が、ずっと横たわっていたのだということを、フォルクは静かに受け止めているようだった。彼の指先が、書類の端をわずかに押さえた。
「そうか」
それだけ確認すると、フォルクはそれ以上何も問わず、何も言わず、ゆっくりと立ち上がった。書類を懐に戻し、扉に向かう足取りは、来たときよりもいくらか重く見えた。
「邪魔をした」
短くそれだけ言い残し、フォルクは静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が、研究室に静かに響いた。足音が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを、アルドはしばらく聞いていた。
一人になった部屋で、アルドは開いたままのノートに目を落とす。『みな喜んでいました』『一度も、例外はありませんでした』――この二行は、どの台帳にも転記されることはない。枷のルーンは今、静かなままだった。テノアの増減を示す震えも、判定の合成音も、何も起きていない。記録されるべき出来事ではないからだ。
だが、アルドにとっては、この二行こそが旅の間に起きたことのすべてだった。超過した節数や加算された月数よりも、よほど確かな真実として、彼の中に残っていた。窓の外の光が、机の上の標本に長い影を落としている。
ヴィナスがこの記録の山を読み終えたとき、何を見るのだろうか。数字の羅列だけを見るのか、それとも、その奥にある何かに気づくのか。アルドにはまだわからなかった。台帳に綴られた節数の一つ一つの裏に、ノエルの声と、応えた精霊の喜びがあったことを、果たして誰かが汲み取ってくれる日は来るのだろうか。
わかっているのは、自分がノートに書いたこの二行が、いずれ意味を持つ日が来るかもしれないということだけだった。旅の記憶は、台帳の数字とは別の場所に、確かに刻まれている。アルドはペンを置き、しばらくの間、何も書かれていない次の行を見つめ続けた。窓の外の声は、いつの間にか遠ざかっていた。
* * *
「記録されない事実と、記録された数字。
どちらが本当のことを語っているか。
私にはずっと、分かっていた」―― アルド フォルクとの対話にて




