第59話 ヴィナスの所見
食堂の窓から差し込む朝の光は、まだ柔らかく、湯気の立つスープの匂いと混じり合っていた。
長机に並んだ学生たちの声が低くざわめく中、ノエルはパンを千切りながら、向かいに座るアルドにちらりと目をやった。
「昨日の夜、結局何も書いてくれませんでしたね」
責めるような声色ではなかった。ただ、何かを確かめるような響き。
アルドはスプーンを置き、筆談ノートを開きかけたが、その手は途中で止まった。
代わりに小さく首を横に振り、それから視線をノエルの皿に落とす。
何と書けばいいのか、彼自身にもまだわからなかった。
「……いいですけど。今日もよろしくお願いします」
ノエルはそう言って、残りのパンを一気に口に詰め込んだ。
隣の長机では、選抜に合格した他の学生たちが昨日の結果を報告し合っている声が聞こえる。
誰かが「規定超過で減点だってさ」と笑い混じりに言うのが、アルドの耳に届いた。
その直後、給仕係の少年が小走りに近づいてきて、折り畳まれた紙片をノエルに手渡した。封蝋には学院の紋章が押されている。
『本日午後、副学院長室まで出頭のこと――ヴィナス・クレール』
短く事務的な文言だった。ノエルの表情から、わずかに血の気が引いた。
「……怒られるんでしょうか、わたし」
アルドは首を横に振った。
だが、その否定にどれほどの確信があるのか、自分でもわからなかった。
* * *
副学院長室は、学院の他の部屋よりも温度が低いように感じられた。
壁一面に並ぶ書架と、整然と積まれた書類の山。
窓際には砂時計と古い天秤が置かれ、装飾らしい装飾は何もない。
ヴィナスは机の向こうで、書きかけの紙から顔も上げずに口を開いた。
「ノエル・ブライトガーデン。昨日の選抜詠唱について、説明します」
淡々とした声だった。ノエルは姿勢を正し、アルドは扉の近くに控えるように立った。室内の静けさが、二人の呼吸の音まで拾い上げてしまいそうだった。
「精霊への呼びかけと讃美の節は、学院規定では『任意節』として分類されます。本来は卒業後の高位詠唱士にのみ認められた構成です。詠唱士ランクのあなたが使用することは、規定上、認められていません」
ヴィナスはようやく顔を上げ、ノエルを見た。
叱責の色も、同情の色もない、ただ事実を客観的な表情だった。
「規定文言には、節数と発声の型が定められています。それを超えた部分――精霊への語りかけのような付加的な表現は、未熟な詠唱士が用いると、テノアの加算対象になります。これは罰ではありません。記録上の整合性の問題です」
アルドの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
記録上の整合性。その言葉の正しさと、昨日演習場に昇った螺旋の風の記憶が、うまく重ならない。あの風は、規定という器のどこにも収まらないものだった。
「あの……」ノエルが小さく口を開いた。「精霊は、喜んでくれていたと思うんです。風が、すごく嬉しそうに見えました」
ヴィナスは一瞬だけペン先を止めた。
だが、それは感情の揺れではなく、書くべき言葉を選ぶための間に過ぎなかった。
「精霊の反応は、評価の対象に含まれません。評価されるのは、詠唱の構成が規定文言に一致しているか否かのみです」
その言葉に、ノエルは小さく俯いた。
アルドはその場で、ノエルに”言葉”をかけられなかった。
この部屋の空気は変わらないとわかっていたからだ。
「次回の詠唱では、規定文言を守るように」
ヴィナスはそれだけ言うと、再び書類に視線を戻した。
アルドはかつて、自分もこの部屋の反対側に立ち、同じように規定文言を学生に説いていたことを思い出していた。
あの頃の自分は、ヴィナスの言葉のどこにも疑いを差し挟まなかった。規定とは守るべきものであり、それ以上でも以下でもなかった。
今は違う。声を封じられ、神霊の喜びと制度の冷たさを同時に感じる立場になって初めて、アルドはあの頃の自分がどれほど多くのものを見落としていたかを知った。だが、それを言葉にする術を、彼はまだ持っていなかった。
面談は、それで終わりだった。
* * *
廊下に出ると、午後の光が石壁に長い影を落としていた。
ノエルはしばらく無言で歩いていたが、やがて足を止め、窓の外を見たままぽつりと言った。
「……精霊に、ありがとうって言ったら、いけないんですか」
答えを求める声ではなかった。誰に向けたものでもない、ただ零れ落ちた疑問だった。窓の外では、中庭の木々が春の風に揺れている。
アルドは足を止め、筆談ノートを開いた。昨夜は動かなかったペン先が、今日は迷いなく動く。
『いけなくはないのです』
ノエルがその文字を見る。アルドはもう一行、続けて書いた。ペン先が紙の上をすべる音だけが、廊下に静かに響いた。
『ただ、規定はそれを認めていないのです』
ノエルはしばらくその文字を見つめていた。
それから、ふっと小さく息を吐いた。怒りでも悲しみでもない、もっと別の何かが滲む息だった。
「……規定が、認めない」
彼女はその言葉を、自分の中で確かめるように繰り返した。
何度も口の中で転がすように。
「なんか、かわいそうですね。そんな規定」
アルドは目を見開いた。その言葉の選び方に、彼は何かを見た気がした。
憎しみでも反発でもなく、ただ哀れむという視線。
制度を壊そうとするのではなく、制度がまだ知らないものを、いつか教えてやろうとするような――そんな静かな強さが、ノエルの横顔にはあった。
規定は精霊の喜びを知らない。だがノエルは、その喜びを誰よりも知っている。その落差を前にして、彼女は怒りではなく、哀れみを選んだ。アルドはその選択の意味を、まだうまく言葉にできずにいた。
廊下の窓から差す光が、彼女の髪を淡く照らしていた。
アルドはノートを閉じ、その隣をゆっくりと歩き出した。
明日からも、この足音は変わらず続いていくのだろう。
規定が知らないものを抱えたまま。
* * *
「規定は知らない。精霊は知っている。
そして私は、どちらも見ていた」
―― アルド 副学院長の所見を聞いて




