第58話 選抜試験
学院第三演習場は、朝の光の中で静かに息をひそめていた。
円形に区切られた石床には、選抜を待つ学生たちの緊張した足音だけが響いている。
観覧席にはフォルクが座り、その隣に見覚えのない外部審査員の姿がある。
年齢も所属もわからない、灰色のローブを纏った人物だった。
そして最前列、書類の束を抱えた白いローブの女性が、ペン先を紙に走らせながら、顔を上げないまま新しい受験者の名を読み上げた。
「ノエル・ブライトガーデン」
副学院長、ヴィナス・クレール。五十代半ば、白髪の交じった髪をきっちりと結い上げ、ローブの襟元には金の縁取りが施されている。選抜が始まってからずっと、彼女のペンは止まることなく書類の上を滑り続けていた。
アルドは少し離れた壁際から、その横顔を見つめていた。フォルクの言っていた「君も知っている顔」とは、こういう人物だったのかと、内心で静かに確かめる。
「課題、『風の加護の詠唱』。規定四節」
試験官役の教員が淡々と告げる。ノエルの前には、すでに三人の受験者が終えていた。誰もが規定通りに四節を詠み切り、規定通りの微風を呼んで頭を下げる。
ヴィナスのペンは、その都度同じ速さで動き、同じ静けさで止まる。優劣のない、整然とした合格の連続だった。
ノエルの番が来る。彼女はノートを胸に抱きしめ、中央へと進み出た。頬はわずかに紅潮していたが、目は澄んでいる。
アルドの胸の中で、何かが静かに引き締まる感覚があった。規定通りにやれば、何も起きない。だが、ノエルが規定通りにやったことなど、これまで一度もなかった。
ノエルは深く息を吸い込み、小さく頷いた。
* * *
詠唱が始まった。
第Ⅰ節、第Ⅱ節、第Ⅲ節――ノエルの声は澄んでいて、教科書通りの抑揚を正確になぞっていた。フォルクが小さく頷くのが見えた。アルドも、それを見ながら筆談ノートに手をかけたまま、動かさずにいた。
だが、第Ⅳ節目に差しかかったとき、ノエルの声色が変わった。
「――風よ、いつもありがとう。今日もよろしくお願いします」
規定にない一節だった。精霊への呼びかけ。讃美。そして、ほんの一拍、返事を待つような間。観覧席で、外部審査員が身を乗り出すのが、アルドの視界の端に映った。フォルクは目を細めて、何かを見定めるような表情を浮かべている。
風が、動いた。
規定が求めるのは「制御された微風」――石床の上を撫でる程度の、穏やかなそよぎだ。だが演習場の中央に生まれたのは、床から天井へと螺旋を描いて昇っていく風だった。光の粒を巻き込みながら、まるで誰かが喜んで踊っているかのように。先に詠唱を終えた三人の受験者たちも、息を呑んでその風を見上げていた。
アルドの胸の奥が、温かくなった。
精霊が、ノエルの言の葉に応えて動いている。
言葉にならない確信が、声を持たない喉の奥でひとつの形を結ぶ。
神霊が、応えている。ノエルの言葉を、ちゃんと聞いている。
四節で終わるはずの詠唱は、十二節まで続いていた。
風がやみ、ノエルが息を整える。十二節分の詠唱を終えた彼女は、額に薄く汗を浮かべながらも、晴れやかな表情をしていた。
観覧席で、ヴィナスが初めて顔を上げた。
「ノエル・ブライトガーデン。規定より八節超過。課題の達成については、審議します」
感情の起伏が一切感じられない声だった。ヴィナスはそのまま手元の書類に視線を戻し、ペン先を走らせる。所見欄に記された文字を、アルドは壁際からでも読み取ることができた。
――詠唱の規定遵守について、指導を要する。
悪意があるようには見えなかった。ただ、制度という器の形に、忠実に従っているだけだった。フォルクが小さく息を吐き、何か言いかけてやめたのが見えた。その視線は一瞬、ヴィナスの手元の書類に向けられ、それからゆっくりとアルドの方へ移った。何かを確かめるような、長い視線だった。
* * *
夜になり、結果が廊下の掲示板に貼り出された。
「合格」の二文字の横に、ノエルの名前が記されていた。
彼女は両手を握りしめ、小さく飛び跳ねた。
「やった……!」
その声に重なるように、フォルクが廊下の角から姿を見せ、何も言わずに小さく頷いて去っていった。外部審査員の姿はもうない。
アルドは掲示板の前に立ち、ノエルの名前の横に並ぶ「合格」の文字を見つめていた。胸の中では、いくつもの言葉が渦を巻いていた。よくやった。見事だった。あの螺旋の風は、規定の四節構成では決して呼べないものだった。
「アルドさん、見ましたよね、あの風」ノエルが掲示板を指さしながら、興奮の冷めやらない声で言った。「あんなに大きく巻いたの、初めてで……」
アルドは小さく頷いた。だが、その頷きの裏に、八ヶ月という数字が静かに横たわっていることを、ノエルはまだ知らない。今夜だけは、知らせたくないという思いが、アルドの中にあった。
筆談ノートを開く手が、止まった。
書くべき言葉が見つからなかったわけではない。ただ、今夜は書かない方がいいと思った。
精霊が応えた事実と、記録に残ったのは超過した節数だけだという冷たさ。その間に立って、アルドは何も書かないまま、ノートを静かに閉じた。ノエルは小さく首を傾げたが、それ以上は何も聞かず、満足げな足取りで先に歩き出した。その背中を見送りながら、アルドは掲示板の前を離れる足音だけを、夜の廊下に長く響かせていた。
* * *
「精霊が応えた。それは見えていた。
でも、記録されたのは超過した節数だけだった」
―― アルド(ノエルの選抜試験にて)




