第57話 選抜前夜
選抜の前日。
午前中は学院の図書室で過ごした。
ノエルは選抜の課題詠唱の規定集を広げ、ページをめくっていた。
アルドはその隣で、旧い文献をいくつか手に取った。
特に目的はなかった。ただ、この匂いが久しぶりだった。古い紙とインクの匂いは、半年前と何一つ変わっていなかった。
書架の間を縫う光が、午前の角度で、本の背表紙を斜めに照らしていた。
図書室の隅では、若い詠唱士たちが、明日の選抜に備えて、小声で文言を確認し合っていた。
誰もが、それぞれの緊張を、それぞれの方法で抱え向き合っていた。
ノエルは、規定集の文字を、何度も指でなぞっていた。
声に出さず、口の中だけで、何かを反復しているようだった。
アルドは、それを邪魔しないよう、少し離れた書架の前に立っていた。
手に取った文献は、古代詠唱に関する研究書だった。何ページかめくってみたが、内容は頭に入ってこなかった。ただ、ページをめくる音と、紙の匂いだけが、不思議と心を落ち着けてくれた。
* * *
昼過ぎ、フォルクが図書室に入ってきた。
学院の主任教授、フォルク・ナーデン。白髪交じりの頭、くたびれた紺の外套。アルドより十歳ほど年上で、学院で最も長く教壇に立っている人物だ。
「アルド。戻ったか」
アルドは頷いた。
フォルクはノエルをちらりと見て、それからアルドの隣の椅子を引いた。木の軋む音が、静かな図書室に小さく響いた。
「明日の選抜、ノエル・ブライトガーデンも受けるよな?」
『はい』
「審査員の一人は、君も知っている顔だ。ヴィナス副学院長」
アルドはペンを持ったまま、少し間を置いた。
ヴィナス・クレール。副学院長。
代償法の運用と学院規定の管理を長年担ってきた人物。
リトの枷の機能と記録の最終管理権限者でもある。
その名前を聞いただけで、アルドの中に、ある種の緊張が走った。
あの平坦な声、感情の読めない表情。
十年前、規定改正の説明を受けたときのことが、ふと頭をよぎった。
「もう一人は、学院外から招かれた審査員だ。名前までは、私も聞いていない」
フォルクは、そう付け加えた。
『承知しました』
フォルクはアルドの顔を見た。何か言いたそうだったが、結局「ま、そういうことだ」とだけ言って立ち上がった。
「アルド。君が戻ってきたのは、よかったと思っている」
それだけ言って、出ていった。その背中を、アルドはしばらく目で追っていた。
何か、言いきれなかった言葉が、まだそこに残っているような気がした。
フォルクらしい、含みのある去り際だった。
ノエルが、規定集から顔を上げた。
「フォルク先生、何の話だったんですか」
『明日の審査員のことです』
アルドは、ヴィナスの名前までは書かなかった。今、伝えるべきことかどうか、まだ判断がつかなかった。
「審査員、誰なんでしょうね。緊張しちゃいます」
ノエルは、そう言いながらも、また規定集に視線を戻した。
指先が、同じ行を、繰り返しなぞっていた。
* * *
夜、ノエルは自室で詠唱の練習をしていた。廊下まで声が聞こえてくる。
課題詠唱の規定文言と、ノエルの詠唱は、いつも微妙にずれる。
規定より長い。言葉が増える。精霊への呼びかけが入る。
何度繰り返しても、その癖は変わらなかった。
練習を重ねるほど、むしろその「ずれ」は、彼女自身の声として、はっきりとした形を持っていくように、アルドには聞こえた。
扉の隙間から漏れる声は、規定の節目で、ほんの少しだけ立ち止まる。
まるで、誰かの返事を待っているかのような間があった。
アルドには、その間に、誰がいるのか、想像することができた。
心の奥に、小さな温かさが灯るのを、アルドは感じた。
リトの枷そのものが熱を持つわけではない。
ただ、ノエルの声を通して伝わってくる何かが、いつも、そういう感覚を連れてきた。
アルドは廊下の壁にもたれて、目を閉じた。
明日、あの詠唱が審査される。
規定と照合される。
ヴィナス副学院長の目の前で。
『問題ない』
声には出せないが、そう思った。
心の中で、その言葉だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。
規定が何を測ろうとしているにせよ、ノエルの詠唱が示してきたものは、これまで一度も揺らいだことがなかった。
廊下の窓から、月明かりが差し込んでいた。
詠唱の声は、まだ続いていた。途切れては、また始まる。
その繰り返しを、アルドは、ただ静かに聞いていた。
明日、この声が、規定という名の物差しに当てられる。
結果がどう出るにせよ、今夜、この声が、確かにここにあったことだけは、誰にも消せない事実だった。
* * *
「明日の選抜、ノエル・ブライトガーデンも受けるよな?」
―― フォルク、図書室にて




