第56話 学院の門
学院の門は、去年の秋と同じ形をしていた。
石造りのアーチ、両脇の常緑樹、正門の上に刻まれた学院の紋章。
何も変わっていない。ただ、春の朝の光の色が、秋と違う。
あの日は、もっと乾いた、寂しい色をしていた。
今日の光は、柔らかく、どこか祝福めいたものを含んでいるように見えた。
門の前で、ノエルは一度足を止めた。
視線を上げ、紋章を見つめる。それから、門の向こうに広がる中庭を見た。
半年間、毎日のように思い描いてきた光景だったはずだ。
アルドは、その横顔を見ながら、彼女が何を考えているのか、想像しようとした。
だが、簡単には測れない種類の感情に思えた。
ノエルは門の前で一度立ち止まり、それから迷わず中に入った。
その足取りに、迷いはなかった。
アルドも、その後を追って門をくぐった。
アーチの下を通り抜けた瞬間、空気の質が変わった気がした。
学院特有の、静かで張り詰めた空気だった。
* * *
受付棟の廊下を歩いていると、すれ違う在校生たちがノエルをちらちらと見た。
白基調の詠唱服——詠唱士のランクの服装——だが、纏う空気が去年と違う。
たぶん、本人は気づいていない。背筋の伸び方、視線の据え方、一つ一つが、半年前とは別人のようだった。
すれ違いざま、小声で「あの人だ」という囁きが聞こえた。
誰のことを指しているのか、アルドにはすぐ分かった。
半年前、ここを出ていったときには、誰も振り返らなかった。
今は、誰もが、一度は視線を向けていく。
その変化に、ノエル自身がまだ気づいていないことが、アルドには少し可笑しく、同時に、少し切なくもあった。
手続きのために受付窓口に向かう途中、廊下の角で鉢合わせた。
群青の外套。銀の刺繍。
マルク・レインズが、書類の束を抱えて立っていた。
一瞬、廊下の空気が固まった。
マルクがノエルを見た。ノエルがマルクを見た。
「……戻ったのか」
マルクの声は、以前と変わらない。低く、整っている。
ただ、去年の秋に最後に会ったときより、何か削れたような——そういう印象があった。アルドは、その変化に、すぐ気づいた。目の下の薄い影、頬の輪郭。半年という時間が、マルクの中で、何かを静かに摩耗させていた。
ノエルは少し間を置いて、頷いた。
「はい。戻りました」
それだけだった。短いやり取りだったが、その短さの中に、何か言葉にならないものが残っていた。
マルクは、もう少し何かを言いたそうな素振りを見せたが、結局、それ以上は続けなかった。
マルクは書類に視線を落とし、廊下を歩いていった。
ノエルはその背中を一瞬だけ見て、また前を向いた。
* * *
受付を済ませ、帰還報告書を提出する。
担当の職員が書類を受け取り、リトの枷を確認し、テノア残高を記帳した。
「残高、約六十一年と四ヶ月。確認しました」
職員の声は事務的だった。アルドはその数字を聞きながら、書類に目を通した。
帰還報告、依頼履歴、詠唱記録——リトの枷が収集してきた一切が、ここで学院の台帳に記録される。半年分の旅が、数枚の紙に圧縮されていく様子を、アルドは静かに見ていた。紙の上の数字は、旅の重さの、ほんの輪郭でしかなかった。
職員は淡々と書類を仕分けながら、時折、ノエルの方をちらりと見た。
何か言いたげな様子だったが、結局、何も言わずに、印を押し続けた。
* * *
廊下に出ると、ノエルが待っていた。
「師匠。選抜、明後日ですって」
『知っています』
「……緊張してきました」
ノエルの声に、これまで聞いたことのない種類の硬さがあった。
旅の間、どんな依頼にも、まっすぐ向き合ってきた彼女が、選抜という言葉一つに、少し怯んでいる。
アルドには、それが意外であり、同時に、自然なことのようにも思えた。
これまでの依頼は、目の前の誰かのためのものだった。
だが選抜は、彼女自身の評価そのものを問うものだ。
種類の違う緊張があって当然だった。
アルドはノートに書いた。
『君の詠唱を、精霊たちは喜んで聴いています。それは旅の間、ずっとそうでした』
ノエルはそれを読んで、少し驚いた顔をした。それから、静かに笑った。
「ありがとうございます」
その声には、先ほどまでの硬さが、わずかに緩んでいた。
春の光が、廊下の石床に斜めに差し込んでいた。
学院の匂いがする。埃と古い本と、微かな魔力の気配。
出発の日に嗅いだのと、同じ匂いだった。
半年前は、その匂いを、ただ当たり前のものとして通り過ぎていた。
今は、一つ一つを確かめるように、深く息を吸い込んでしまう。
胸の奥で、何かがゆっくりと落ち着いていくのを、アルドは感じた。
「帰ってきた」という実感が、ようやく形を持ち始めていた。
マルクとの短い再会も、選抜という新しい緊張も、すべてが、この場所に確かに戻ってきたことの証だった。
窓の外、中庭の木々が、春の風にそよいでいた。
明後日、あの中庭で、ノエルは選抜の詠唱を行うことになる。
アルドは、その光景を、まだ知らないままに思い描いた。
* * *
「残高、約六十一年と四ヶ月。確認しました」
―― 受付職員、帰還報告書の記帳にて




