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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第55話 学院の塔が見えた日

 学院まで、残り一日。


 朝、峠を越えたところで、ノエルが立ち止まった。


 遠くの丘の稜線の向こうに、石造りの塔の先端が見えていた。王立魔術学院の北棟——旅に出る前、毎朝窓から眺めていた塔だ。

 朝靄の向こうに霞んで、まだ輪郭はぼんやりとしていたが、見間違えようのない形だった。


 ノエルは、しばらくその場から動かなかった。

 風が、彼女の髪を軽く揺らしていた。

 アルドは、その背中を少し離れた場所から見ていた。何かを書くべきかどうか、迷っているうちに、ノエルが軽く息を吸った気配がした。


 アルドが言葉を選ぶより先に、ノエルが告げた。


「……見えましたよ!」

 

 振り返ったノエルの瞳は、涙はなく、ただ光で滲んで見えた。

 一瞬、強く吹き上げた風が、大きく彼女の髪を撫で上げて、声の震えをそっと隠してくれた。


 ノエルはそれだけ言って再び遠くの景色に視線を戻した。

 今までのいろいろな出来事が彼女の心に去来しているのだろう。

 しかも、学院ではあまりいい思い出がない。


 アルドも歩みを止めた。

 峠の風が、春の匂いを運んでくる。土と若葉と、わずかに残る朝露の匂いだった。

 眼下に広がる平野には、点々と農村の屋根が見え、その向こうに、霞んだ街道が続いていた。半年前、この道を逆向きに歩いて出発したことを、アルドは思い出していた。あのときは、ノエルの背中が、今よりもずっと小さく見えた。


 学院を出たのは、去年の秋だった。あの日、ノエルは不合格通知を手に持ったまま、旧校舎の裏で一人で泣いていた。アルドが声をかけたのは、精霊たちの喜ぶ気配を——魔術師として気配で——感じたからだった。

 あれから半年余り。季節は秋から、冬を越え、また春になっていた。


 旅の記憶が、峠道に立ったまま、次々とよみがえった。

 井戸の村で見つけた古い祠。

 雨の宿で出会った元司書の老人。

 果樹園で受け取った一つの果実。

 マルクとの中庭での対話。卒業審査委員会の重い空気。

 どれも、半年前のアルドには想像もできなかった出来事だった。


 今、目の前にいるノエルは、あの日と同じ鞄を背負っている。

 中身は全然違う。

 『王立魔術学院 沿革史』、果実の種、道中で拾った石ころ、依頼のたびに増えていった謝礼の銅貨。鞄の膨らみ方一つにも、半年の旅の重さが詰まっていた。


 ノエル自身も、出発した日とは違って見えた。

 背筋の伸ばし方、相手の目を見て話す間合い、迷いのない言葉の選び方。詠唱士としての技量だけでなく、何か、もっと根本的な部分が変わっていた。アルドには、その変化の一つ一つに、覚えがあった。すべて、この半年の積み重ねだった。


 ノエルが、鞄の肩紐を締め直しながら、もう一度塔を見上げた。何も言わなかったが、その目には、出発の朝とは違う光が宿っていた。


     * * *


 レイがアルドの肩に止まり、塔を眺めた。長い尾羽が、峠の風に流れた。


「帰ってきたね」


『ええ』


「旅には、十分に時間をかけられたかい」


 アルドは、その問いに、少し考えた。この旅は十分、長かったような気もするし、あっという間だったような気もした。時間をかけられるなら、かけられるだけとも思う。だけれどノエルは確実に成長をしている。今このときは、十分だったかどうかは、簡単には言い切れなかった。


『分かりません』


「分からない、か。それも答えだよ」


レイは、くすりと笑った。そして、さらにノエルに問うた。


「怖いかい」


 ノエルはその問いに、はッとして、少しだけ目を伏せた。


「……ちょっとだけ。でも、旅に出る前よりは――」


 一瞬だけ言葉を探すように無言の時間が流れ、そっと指先を握ってから続けた。


「前よりずっと、大丈夫な気がします」


 そう言いながら、顔をあげたノエルの瞳には、少し残った迷いより、確かな自信の方が勝っている気がした。


「アルド、君はどんな顔で門をくぐる?」


 アルドはその問いに、しばらく答えられなかった。どんな顔をすればいいのか、考えたことすらなかった。出発した日のことは覚えている。あの日、フォルクが正門まで見送りに来て、何も言わずに肩を叩いた。今日、帰ってくる日のことは、誰も教えてくれなかった。


「変な顔しなくていいよ」


 レイが、笑うように言った。


「ただ歩いて、ただくぐればいい。それだけのことさ」


     * * *


 しばらくして、ノエルが尋ねた。


「師匠。一個、聞いてもいいですか」


『どうぞ』


「……旅、楽しかったですか」


 その問いは、軽い口調で発せられたが、アルドには、それがノエルにとって、ずっと聞きたかった問いだったことが分かった。


 アルドは返答を何度か書きかけて、止めた。

 楽しかった、というだけでは足りない気がした。苦しかったことも、怖かったこともある。

 雨に降られた日、宣告の重さに膝をついた日、声を持たないことを心の底から悔しく思った日もあった。それでも、楽しかった、という言葉以外に、相応しいものが見つからなかった。


 結局、書いたのはシンプルに一言だった。


『はい』


 ノエルはそれを読んで、また前を向いた。少しの間、その横顔を見ていたが、何も付け加えなかった。それだけで、十分だったのかもしれない。


「じゃあ、行きましょう!」


     * * *


 峠を下り始める。塔が、少しずつ大きくなっていく。一歩進むごとに、輪郭がはっきりとしていった。石材の継ぎ目、窓の格子、屋根の傾き――半年前には当たり前に見ていたものが、今は一つ一つ、新しく目に映った。


 胸の奥に、何か温かいものが広がっていた。朝の光と同じくらい、柔らかく、静かなものだった。これが何という名前の感情なのか、アルドにはまだ分からなかった。


 ただ、確かにそこにあった。


 道の脇には、まだ朝露の残る草が、二人の足音と一羽の羽ばたきに揺れていた。

 遠くで鳥が鳴き、それに応えるように、別の鳥が鳴いた。

 何でもない、いつも通りの春の朝だった。

 それでも、その何でもなさが、今日はいつもより尊いものに思えた。


 ノエルは、時折、振り返ってアルドを見た。

 何も言わなかったが、その視線には、確かめるような優しさがあった。

 アルドも、それに気づくたび、小さく頷き返した。言葉のいらないやり取りだった。


 明日、学院の門をくぐる。

 そして選抜が、始まる。


 その先に何が待っているのか、アルドにはまだ分からなかった。

 卒業審査委員会のことも、選抜のことも、これから先のことも。

 ただ、隣を歩くノエルの足取りが、行きの旅よりも、ずっと確かなものになっていることだけは、はっきりと分かった。


 二人の足音が、峠道に重なって響いていた。

 塔の影が、まだ届かない遠さで、二人を待っていた。


     * * *


「じゃあ、行きましょう」

―― ノエル、学院の塔を望む峠にて

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