第54話 風が逃げた日
学院まで、残り十四日。
晴れた日の午後、街道沿いの果樹園で依頼を受けた。
木々の合間を抜ける風が、青い果実の匂いを運んでくる。
夏の入り口らしい、湿った緑の匂いだった。
街道から少し入った場所に、果樹園は広がっていた。
等間隔に並んだ木々の枝に、まだ熟しきっていない実が、鈴なりに揺れていた。
普段なら、静かで穏やかな光景だったはずだ。
「風が悪さをしてるんだ。摘んだばかりの実が、片っ端から飛んでいっちまう」
果樹園の主人はそう言って、苦笑いを浮かべた。籠の中の果実が、時折ふわりと浮き上がって、宙を漂うように飛んでいく。
確かに、悪戯だった。誰かが故意に投げたのでもなければ、こうはならない。
「困ってるんだよ。収穫が、ちっとも進まなくて」
主人は頭を掻きながら、空を見上げた。風はそよとも吹いていないのに、木の枝だけが、ときどき不自然に揺れた。
「学院に依頼を出したのは、もう三度目なんだ。前の二回は、別の詠唱士が来てくれたんだが――どちらも、効果がなくてね」
主人の声には、隠しきれない疲れが滲んでいた。三度目の依頼が、ようやく実を結ぶのかどうか、半信半疑な様子だった。
ノエルは果樹園の中央に立ち、空に向かって少し笑った。
「シルですね」
周囲に意識を向けると、くすくすと笑うような気配が伝わってくる。
アルドには、その気配がはっきりと分かった。
長年の付き合いで覚えた、シル特有の悪戯っぽい温度だった。
風の大精霊は、いつも唐突に現れ、唐突に去っていく。
今回も、その気まぐれの延長線上にあるのだろう、とアルドは思った。
* * *
詠唱は短い。風の精霊への呼びかけ――いつもより少し砕けた言葉選びで、まるで友達に話しかけるような節だった。
「シルさん、こんにちは。お久しぶりです」
ノエルは、規定の文言から始めた。最初の一節は、いつも通りの呼びかけだった。
「今日は、ちょっとだけ、いたずらが過ぎてるみたいですね」
くすくすと笑う気配を強めた。
「シル、いたずらはそろそろ十分でしょう? でも、ちょっとだけ羨ましいです。私もその果実を食べてみたいので」
頭の奥で、何かが言った。
『……いいだろう』
『一個だけな』
『あとは、返す』
風がぴたりと止む。空に浮いていた果実が、ふわりと地面に降りてくる。
一つだけ、ノエルの手のひらにすとんと落ちた。
「わっ……」
「これは精霊からの贈り物だね。食べてごらんよ」
果樹園の主人が笑った。皺の刻まれた顔が、子どものように緩んでいた。
ノエルはその果実を一口食べ、「甘いです」と笑った。
果汁が指先を伝って、陽光に小さく輝いていた。
果樹園の主人は何度も頭を下げた。
籠の中の果実は、もう浮き上がる気配もなく、静かに収まっていた。
木々の枝も、いつもの穏やかな揺れ方に戻っている。
風が、また何事もなく通り過ぎるだけのものになっていた。
* * *
詠唱を終えた帰り際、リトの枷が反応した。
『讃美の評価:第Ⅱ節、神霊の採点において「羨望の誠意」判定。テノアの残高より、三ヶ月を減算します』
レイがふわりと舞い降りてきて言う。
「あの『食べてみたい』って一言、シルは気に入ったみたいだね。精霊への羨望って、案外、神々への一番自然な接待になるんだよ」
「羨望……」
ノエルが、その言葉を繰り返した。口の中で、その響きを確かめるように。
「ただの命令や讃美じゃなくて、『私もそうなりたい』って気持ち。それを真っ直ぐ伝えられる詠唱者は、案外少ない」
レイの声には、いつもの軽口とは違う、わずかな感心の色があった。
「シルみたいな悪戯好きの精霊は、特に、そういう素直な気持ちに弱いんだ。命令されるより、羨ましがられる方が、ずっと嬉しいものだからね」
ノエルは、自分の手のひらを見た。果実の感触が、まだそこに残っているようだった。
「私、本当に、食べてみたかっただけなんですけど」
「それでいいんだよ」
レイは笑って、ノエルの肩に止まった。
アルドは、その光景を見ながら、ノートに何かを書こうとして、結局、ペンを止めた。
テノアの減算という結果だけを見れば、これまでと同じ宣告に過ぎない。
だが、その理由が、これまでとは少し違っていた。讃美でも、謝罪でもなく、ただの「羨ましい」という素直な気持ちが、精霊の心を動かした。
人間が精霊に向けて使う言葉は、いつも、何かを求めるか、何かに感謝するか、そのどちらかに偏りがちだった。だが、ノエルの言葉には、もう一つの形があった。「あなたのようになりたい」という、対等な憧れの形だった。
街道に戻る途中、ノエルはまだ手の中に残った果実の種を、大事そうにポケットにしまっていた。
小さな、黒っぽい種だった。これがいつか木になるとは、にわかには信じがたいほど、頼りない大きさだった。
「師匠。これ、植えてみてもいいですか」
『もちろんです』
「いつか、ここを通った時に、木になってるかもしれませんね」
アルドは、その言葉を考えてみた。何年後か、いつか戻るこの道に、一本の木が立っているところを想像すると――胸の奥に、言葉にならない温かさが広がった。
「楽しみですね」
屈託のない笑顔で、嬉しそうにノエルは言った。
ノエルは、種の入ったポケットを、軽く押さえながら言った。陽が傾き始めた街道に、二人の影が、長く伸びていた。
『テノア残高――約61年4ヶ月』
その夜、宿の窓辺で、リトの枷に刻まれたルーンが、いつもより少しだけ柔らかい色をしていた。アルドはノートを開いたまま、しばらく、何も書かなかった。種の重さを、まだ手のひらのどこかに感じているような気がした。
* * *
「私もその実、食べてみたいので」
―― ノエル、果樹園の即興詠唱より




