第52話 井戸の音
学院まで、残り十六日。
その日、街道を外れた小さな村で、井戸の水が濁っているという依頼を受けた。
難易度は低い――精霊への簡単な呼びかけで済む程度のものだった。
依頼主は村の世話役をしている老婦人だった。
井戸端まで案内されると、水面はわずかに白く濁り、底からぷつぷつと小さな泡が立っている。
「先月から急にこうなってね。子どもらが飲むには、ちょっと……」
老婦人はそう言って、不安を吐露した。
ノエルは井戸の縁に手を置き、しばらく耳を澄ませるように目を閉じた。
それから、小さく頷いて詠唱を始めた。
短い節。三つほど。
水の精霊への呼びかけと、最後に「澄んでいてくれて、ありがとう」という感謝の一節を添えた。
本来の依頼にはない、即興の一言だった。
井戸の奥で、ふっと何かが動く気配。白い濁りが、ゆっくりと底に沈んでいく。
「……うん。良くなりました」
ノエルが井戸の中を覗き込んで言うと、老婦人は驚いた顔で水を覗き、それからぱっと笑った。
「こんなに早く! ありがとうねえ」
依頼料を受け取り、村を出る。
テノアの残高に変化はなかった。
詠唱に噛みもなく、特別な反応もない。
ただ、井戸の水が澄んだ。それだけの依頼だった。
街道を歩きながら、ノエルは鞄から『沿革史 第三巻』を取り出し、歩きながらページをめくっていた。
「師匠。この本、依頼の記録も載ってるんです」
『依頼の記録、ですか』
「はい。何百年も前の、井戸とか水路の依頼の記録です。今日みたいな、小さい依頼の」
ノエルはあるページを指で示した。古い字で、依頼内容と『謝礼:銅貨三枚』『詠唱者:(名前なし)』とだけ記されている。
「名前、書いてないんですね」
「昔は、こういう小さい依頼に詠唱者の名前を残す習慣がなかったんだろうね」
レイが横から覗き込んで言った。
珍しく軽口がない、淡々とした口調だった。
ノエルはそのページをじっと見ていた。それから、ぽつりと言った。
「……今日の井戸も、名前、残らないんですね」
『残りますよ』
私はノートに書いた。
『私が、覚えています』
ノエルは少し驚いた顔をして、それから「……そうですね」と笑った。
その夜、宿の窓から見える村の灯りは、いつもより少しだけ静かに見えた。
* * *
「名前の残らない仕事が、世界を少しずつ良くしている。
誰かがそれを覚えていれば、それでいいのかもしれない」
――アルド(井戸の依頼をこなした夜)




