第50話 水路のおじいさん
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
学院まで、十八日。
朝、宿を出る前に、ノエルが地図をもう一度見た。
「今日は……トルネ村の方ですか」
「いや」とレイが言った。「今日は、川沿いの村だ。水路のところ」
ノエルが、少し顔を上げた。
「水路のおじいさん」
「覚えているか」
「覚えてます。噛んだ日です」
第Ⅴ節で噛んだあの日。300年以上の古い水路の精霊。
ノエルは、少し複雑な顔をした。
* * *
午前中、街道を歩いた。
春の街道は、行きとはまた違う賑やかさがあった。畑で人が働いている。子どもが走っている。鳥の声が、絶えない。
ノエルが、ふと言った。
「師匠、あの時——『また減らします』って、私、言いましたよね」
『言いました』
「あれから、テノアの減算、ないですよね」
『ないです』
「……早く、減らしたいです」
アルドは、その言葉を聞いて、ノエルを促す。
『今日、行きますか』
「行きます。水路のおじいさんに、また会いに」
* * *
昼前、村に着いた。カデルの村だった。
カデルは畑の前にいた。腰を伸ばして、こちらを見て、少し驚いた顔をした。
「……あんたたち、確か」
「お久しぶりです」とノエルが言った。「水路の、詠唱士です」
「ああ、ああ! 覚えてるよ。あの時の」
カデルが近づいてきた。
「水路はどうですか」とノエルが聞いた。
「水路かい? 良くなったよ。前より水が澄んでる」
ノエルが、少し安心した顔をした。
* * *
水路に向かった。
春の水路は、冬とは違っていた。水量が増えていた。流れも速くなっていた。
ノエルが水路の縁に立って、水を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、しゃがんで、水面に向かって、小さく語りかけた。
「こんにちは。また来ました」
何も起きなかった。
でも、レイが言った。
「……聞いているぞ」
ノエルが立ち上がった。
「詠唱、していいですか」
「依頼ではないが——挨拶がわりの詠唱なら、構わないだろう」
* * *
ノエルが、ノートを開いた。
第Ⅰ節。
以前と同じ、丁寧な、格調のある詠唱だった。でも、少し違った。
あの時は——緊張があった。今日は、もっと自然だった。
周囲の気配が、ゆっくり温かくなった。
頭の奥で、低い声が届いた。
『……また、来たか』
『この前の、子じゃな』
『噛んだ子じゃ』
ノエルが、少し肩を強くした。アルドは、それを見た。でも、ノエルは続けた。
「はい。前回、噛みました。今日は——」
声には出さなかった。ノートには書いた。
第Ⅱ節。
あのとき噛んだ、まさにその箇所——「ノエル・ブライトガーデン」の名乗りの構成に近い節を、もう一度詠唱した。
今日は、噛まなかった。
頭の奥で響く声が変わった。
『……噛まなかった』
『今日は、噛まなかったのお』
『前回の続き、か』
『続き、というのは』
『この子は、ここに来て、続きを詠唱した』
* * *
第Ⅲ節。第Ⅳ節。
ノエルの詠唱は、丁寧に続いた。あの時より、長くはなかった。でも、深かった。
第Ⅳ節で、即興を入れた。
今日の即興は、「戻ってくること」についての詩だった。一度通った場所に、もう一度戻ってくること。同じ場所が、違う意味を持つこと。
頭の奥の声が、静かになった。
『……これは』
『戻ってきた、という詩か』
『うむ。戻ってきた』
『この子は、噛んだ場所に、戻ってきた』
『それを、詩にした』
『……うまいのお』
* * *
第Ⅴ節。
まさにあのとき噛んだ、その節だった。
ノエルの声が、一瞬、止まる。
アルドも、息を飲んだ。
頭の奥で、何かが、静かになった。誰も、何も言わなかった。神霊界全体が、聞いているような静けさだった。
ノエルが、続けた。
「——セレス様の慈雨に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
噛まなかった。
水路の水が、一度、大きく流れた。それから——澄んだ。
ふたたび頭の奥に、声が届いた。
『……噛まなかった』
『噛んだ場所で、噛まなかった』
『これは——』
『これは、大きいぞ』
『神々の採点に、関わる。あやつらの仕組みをちょいと借りるとしよう』
* * *
第Ⅵ節には繋げず、ノエルは、第Ⅴ節で詠唱を終えた。
「……今日は、ここまでにします」
レイが言った。
「正しい判断だ」
水路を見ると、水が、これまで見た中で一番澄んでいた。底の石が、はっきり見えた。
その時——リトの枷が、静かに鳴った。
いつもの締め付けではなかった。減算の温かさだった。
『リトシステムから、減算の宣告が来ました』
ノエルが、すぐにアルドを見た。
『……「噛んだ場所で噛まなかったこと」への、特別評価です。一年と六ヶ月、減算されます』
「一年と六ヶ月」
『テノアの残高は——約六十一年と七ヶ月になります』
ノエルは、それを聞いて、しばらく動かなかった。
それから、水路を見た。
「……おじいさん」
誰に向けてかわからない、小さな声だった。
「ありがとうございます」
* * *
カデルが「どうだい」と聞きにきた。
「水路、すごく澄んでます」とノエルが言った。
「そうかい! 良かった」
カデルは満足そうに頷いた。村を出る前に、また飲み物をくれた。今度は冷たい、果物の入った水だった。
「春は、これがいいんだ」
冷たくて、少し甘かった。
* * *
村を出て、街道を歩きながら、ノエルが言った。
「……減りました!」
『減りましたね』
「あのとき、減らしますって言いました。やっと、やっと今日、減りました」
『はい』
「あのときの自分に、伝えたいです。本当に減るよって」
アルドは、その言葉を見て、少し考えた。
『ノエルの振り返りノートに、書いてあるかもしれません。あの時のページに』
「……あるかもしれません」
ノエルは、少し笑った。
「帰ったら、見てみます」
* * *
夕方、宿に入る前に、レイが言った。
「若造。今日の減算、聞いたか」
『聞きました』
「『噛んだ場所で噛まなかった』ことへの特別評価だ。神々は、ただ噛まないことを評価しているわけではない」
『何を評価しているんですか』
「同じ場所に戻って、同じ課題に向き合ったことだ。逃げなかったこと」
アルドは、その言葉を、しばらく見た。
* * *
夜、宿の部屋で、ノエルが振り返りノートを開いた。
ページを、戻していた。
あの噛んだ日のページを、探していた。
しばらくして、ノエルが、そのページを見つけた。
声に出さず、読んでいた。
アルドは、自分のノートを開いた。私的ノートではなく、報告書の方を。
今日の出来事を、記録した。減算。「噛んだ場所で噛まなかった」という事実。
それから、私的ノートも開いた。
『今日、あの日を振りかえり、ノエルが読んでいる。何が書いてあるかは、わからない。でも——あのページに書いた「悔しい」という言葉が、今日の減算に繋がった。悔しさは、燃料になる、と私は書いた。それは、本当だった』
『「逃げなかったこと」をレイは評価した、と言った。学院に向かう道は、過去に向き合う道でもある。これから、他の村も通る。他の「噛んだ場所」も、あるかもしれない。その全部に、ノエルは向き合うのだろう』
ペンを置いた。
ノエルが、振り返りノートを閉じた。何も言わなかった。でも、顔が、晴れていた。
学院まで、十八日。
* * *
「同じ場所に戻って、同じ課題に向き合ったことだ。
逃げなかったこと」
―― レイ、宿の前にて




