表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/91

第50話 水路のおじいさん

『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』


 学院まで、十八日。


 朝、宿を出る前に、ノエルが地図をもう一度見た。


「今日は……トルネ村の方ですか」


「いや」とレイが言った。「今日は、川沿いの村だ。水路のところ」


 ノエルが、少し顔を上げた。


「水路のおじいさん」


「覚えているか」


「覚えてます。噛んだ日です」


 第Ⅴ節で噛んだあの日。300年以上の古い水路の精霊。


 ノエルは、少し複雑な顔をした。


     * * *


 午前中、街道を歩いた。


 春の街道は、行きとはまた違う賑やかさがあった。畑で人が働いている。子どもが走っている。鳥の声が、絶えない。


 ノエルが、ふと言った。


「師匠、あの時——『また減らします』って、私、言いましたよね」


『言いました』


「あれから、テノアの減算、ないですよね」


『ないです』


「……早く、減らしたいです」


 アルドは、その言葉を聞いて、ノエルを促す。


『今日、行きますか』


「行きます。水路のおじいさんに、また会いに」


     * * *


 昼前、村に着いた。カデルの村だった。


 カデルは畑の前にいた。腰を伸ばして、こちらを見て、少し驚いた顔をした。


「……あんたたち、確か」


「お久しぶりです」とノエルが言った。「水路の、詠唱士です」


「ああ、ああ! 覚えてるよ。あの時の」


 カデルが近づいてきた。


「水路はどうですか」とノエルが聞いた。


「水路かい? 良くなったよ。前より水が澄んでる」


 ノエルが、少し安心した顔をした。


     * * *


 水路に向かった。


 春の水路は、冬とは違っていた。水量が増えていた。流れも速くなっていた。


 ノエルが水路の縁に立って、水を見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 それから、しゃがんで、水面に向かって、小さく語りかけた。


「こんにちは。また来ました」


 何も起きなかった。


 でも、レイが言った。


「……聞いているぞ」


 ノエルが立ち上がった。


「詠唱、していいですか」


「依頼ではないが——挨拶がわりの詠唱なら、構わないだろう」


     * * *


 ノエルが、ノートを開いた。


 第Ⅰ節。


 以前と同じ、丁寧な、格調のある詠唱だった。でも、少し違った。


 あの時は——緊張があった。今日は、もっと自然だった。


 周囲の気配が、ゆっくり温かくなった。


 頭の奥で、低い声が届いた。


『……また、来たか』


『この前の、子じゃな』


『噛んだ子じゃ』


 ノエルが、少し肩を強くした。アルドは、それを見た。でも、ノエルは続けた。


「はい。前回、噛みました。今日は——」


 声には出さなかった。ノートには書いた。


 第Ⅱ節。


 あのとき噛んだ、まさにその箇所——「ノエル・ブライトガーデン」の名乗りの構成に近い節を、もう一度詠唱した。


 今日は、噛まなかった。


 頭の奥で響く声が変わった。


『……噛まなかった』


『今日は、噛まなかったのお』


『前回の続き、か』


『続き、というのは』


『この子は、ここに来て、続きを詠唱した』


     * * *


 第Ⅲ節。第Ⅳ節。


 ノエルの詠唱は、丁寧に続いた。あの時より、長くはなかった。でも、深かった。


 第Ⅳ節で、即興を入れた。


 今日の即興は、「戻ってくること」についての詩だった。一度通った場所に、もう一度戻ってくること。同じ場所が、違う意味を持つこと。


 頭の奥の声が、静かになった。


『……これは』


『戻ってきた、という詩か』


『うむ。戻ってきた』


『この子は、噛んだ場所に、戻ってきた』


『それを、詩にした』


『……うまいのお』


     * * *


 第Ⅴ節。


 まさにあのとき噛んだ、その節だった。


 ノエルの声が、一瞬、止まる。


 アルドも、息を飲んだ。


 頭の奥で、何かが、静かになった。誰も、何も言わなかった。神霊界全体が、聞いているような静けさだった。


 ノエルが、続けた。


「——セレス様の慈雨に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」


 噛まなかった。


 水路の水が、一度、大きく流れた。それから——澄んだ。


 ふたたび頭の奥に、声が届いた。


『……噛まなかった』


『噛んだ場所で、噛まなかった』


『これは——』


『これは、大きいぞ』


『神々の採点に、関わる。あやつらの仕組みをちょいと借りるとしよう』


     * * *


 第Ⅵ節には繋げず、ノエルは、第Ⅴ節で詠唱を終えた。


「……今日は、ここまでにします」


 レイが言った。


「正しい判断だ」


 水路を見ると、水が、これまで見た中で一番澄んでいた。底の石が、はっきり見えた。


 その時——リトの枷が、静かに鳴った。


 いつもの締め付けではなかった。減算の温かさだった。


『リトシステムから、減算の宣告が来ました』


 ノエルが、すぐにアルドを見た。


『……「噛んだ場所で噛まなかったこと」への、特別評価です。一年と六ヶ月、減算されます』


「一年と六ヶ月」


『テノアの残高は——約六十一年と七ヶ月になります』


 ノエルは、それを聞いて、しばらく動かなかった。

 それから、水路を見た。


「……おじいさん」


 誰に向けてかわからない、小さな声だった。


「ありがとうございます」


     * * *


 カデルが「どうだい」と聞きにきた。


「水路、すごく澄んでます」とノエルが言った。


「そうかい! 良かった」


 カデルは満足そうに頷いた。村を出る前に、また飲み物をくれた。今度は冷たい、果物の入った水だった。


「春は、これがいいんだ」


 冷たくて、少し甘かった。


     * * *


 村を出て、街道を歩きながら、ノエルが言った。


「……減りました!」


『減りましたね』


「あのとき、減らしますって言いました。やっと、やっと今日、減りました」


『はい』


「あのときの自分に、伝えたいです。本当に減るよって」


 アルドは、その言葉を見て、少し考えた。


『ノエルの振り返りノートに、書いてあるかもしれません。あの時のページに』


「……あるかもしれません」


 ノエルは、少し笑った。


「帰ったら、見てみます」


     * * *


 夕方、宿に入る前に、レイが言った。


「若造。今日の減算、聞いたか」


『聞きました』


「『噛んだ場所で噛まなかった』ことへの特別評価だ。神々は、ただ噛まないことを評価しているわけではない」


『何を評価しているんですか』


「同じ場所に戻って、同じ課題に向き合ったことだ。逃げなかったこと」


 アルドは、その言葉を、しばらく見た。


     * * *


 夜、宿の部屋で、ノエルが振り返りノートを開いた。


 ページを、戻していた。


 あの噛んだ日のページを、探していた。


 しばらくして、ノエルが、そのページを見つけた。


 声に出さず、読んでいた。


 アルドは、自分のノートを開いた。私的ノートではなく、報告書の方を。


 今日の出来事を、記録した。減算。「噛んだ場所で噛まなかった」という事実。


 それから、私的ノートも開いた。


『今日、あの日を振りかえり、ノエルが読んでいる。何が書いてあるかは、わからない。でも——あのページに書いた「悔しい」という言葉が、今日の減算に繋がった。悔しさは、燃料になる、と私は書いた。それは、本当だった』


『「逃げなかったこと」をレイは評価した、と言った。学院に向かう道は、過去に向き合う道でもある。これから、他の村も通る。他の「噛んだ場所」も、あるかもしれない。その全部に、ノエルは向き合うのだろう』


 ペンを置いた。


 ノエルが、振り返りノートを閉じた。何も言わなかった。でも、顔が、晴れていた。


 学院まで、十八日。


     * * *


「同じ場所に戻って、同じ課題に向き合ったことだ。

 逃げなかったこと」

―― レイ、宿の前にて

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ