第49話 来た道を戻る
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
学院までの道のりは、来た道のほとんどをそのまま戻ることになった。
ノエルが地図を見ながら、少し驚いた顔をした。
「……ほとんど、同じ道ですね」
「そうだ」とレイが言った。「行きに通った村を、また通ることになる」
「カレン村とか、トルネ村とか……エルゲ村も」
ノエルは地図の上で、指を街道沿いに動かした。
「会いに行けますね」
「会いに行く、というか——通るだけだが」とレイが言った。
「通るだけでも、会えます」
ノエルは、それだけ言って、地図を畳んだ。
* * *
午前中、街道を歩いた。
来た道を戻るというのは、不思議な感覚だった。
冬に通った時は、雪が積もっていた。今は、緑が出ていた。同じ場所のはずなのに、まるで違う場所のように見えた。
ノエルが、ふと立ち止まった。
「……ここ」
街道の脇に、小さな石碑のような出っ張りがあった。
「ここで、初雪を見ました。覚えてますか」
アルドはノートを開いた。
『ええ。覚えています』
「あの時、雪の歩き方を教えてもらいました」
ノエルは、その場所を見ながら、少し笑った。
「今は、雪がないですね」
『そうですね』
ノエルは、しばらくその場所を見ていた。それから、また歩き始めた。
* * *
昼前、エルゲ村が見えてきた。
マティアスとその母親に会った村だった。火の精霊の依り代―—暖炉に向かって詠唱した村。
村に近づくと、子どもが一人、街道で遊んでいるのが見えた。マティアスだった。
マティアスが顔を上げて、こちらを見た。
「……あ!」
走ってきた。
「詠唱士さん!」
「お久しぶりです」とノエルが言った。
「火の精霊、その後どうですか」
「大丈夫です! あれから、何もないです!」
マティアスの母親も、家から出てきた。手の包帯は、もう取れていた。
「あの時は、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。元気そうで、よかったです」
* * *
少し時間があったので、村で休憩することにした。
マティアスの母親が、お茶を出してくれた。あの時の干し肉とパンの礼を、改めて言われた。
「もうすぐ、学院に戻られるんですか」
「はい。少し、用事があって」
「お元気で。また、いつか」
村を出る時、マティアスが手を振った。
「またね、詠唱士さん!」
ノエルも手を振り返した。
* * *
午後、街道を歩きながら、ノエルが言った。
「師匠、行きと帰りで、同じ道なのに違いますね」
『どのように?』
「行きは……知らない場所でした。これからどうなるか、わからない場所。でも、帰りは——知ってる場所です。誰かに会った場所。詠唱した場所」
アルドは、その言葉を見た。
『それは、積み重ねですね』
「積み重ね」
『行きに通った時には、何もなかった場所が——帰りには、意味のある場所になっています。エルゲ村もそうです。最初は依頼のあった村でした。今は——マティアスがいる村、です』
ノエルは、それを聞いて、少し空を見た。
「……そうですね」
* * *
夕方、宿に入る前に、レイが言った。
「若造、覚えているか。初雪の日にここを通った時のことを」
『覚えています』
「あの時より、ノエルは変わった」
『そう思います』
「お前も、変わったか」
アルドは、少し止まった。
『……わかりません。でも——神霊の気配、魔術で感じる温度は、変わりました』
「温度か」
『あの日までは、リトの枷はただの重さとしての存在でした。今は——神霊の気配がよりわかる】
レイは、それを聞いて、何も言わなかった。ただ、宿の屋根に飛び上がった。
* * *
宿の部屋で、ノエルが振り返りノートを開いた。
いつもより、長く書いていた。
アルドは、自分のノートを準備しながら、その様子を見ていた。
しばらくして、ノエルが顔を上げた。
「師匠」
『はい』
「学院に着いたら、最初に何をしますか」
アルドは、少し考えた。
『まず、フォルク——担当官に、報告書を提出します。それから——選抜の詠唱の予定が、決まると思います』
「フォルクさんって、どんな人ですか」
『真面目な人です。報告書には厳しいですが、不公平な人ではありません』
「会ったことありますか、私」
『一度だけ。ノエルが学院に入ったばかりの頃、簡単な紹介をされたと思います。覚えていないかもしれませんが』
「……覚えてないです」
「向こうは覚えているかもしれない」とレイが言った。「お前の名前は、報告書で何度も出ているからな」
ノエルが少し驚いた顔をした。
「報告書に、私の名前……」
『たくさん出ています』
「どんな風に書いてるんですか」
『正直に書いています。詠唱の進歩、即興の質、噛みの回数——全部』
「全部……」
「悪いことも、書いてるんですか」
『悪いことという書き方はしていません。でも——課題があった時は、課題として書いています』
ノエルは、それを聞いて、しばらく考えていた。
* * *
「師匠の報告書、読んでみたいです」
アルドは、少し止まった。
『今は——持っていません。提出済みなので』
「学院に行けば、見られますか」
『記録として残っているはずです。閲覧できるかは、わかりません』
「見てみたいです。自分のことが、どう書かれてるか」
『良いことも、悪いことも、両方書いてあります』
「両方、見たいです」
アルドは、それ以上、何も書かなかった。
学院に着いたら、見せられるかどうかは、わからない。でも、見たい、と言ったノエルの気持ちを、大切にしたいと思った。
* * *
夜、今日もアルドは日課の私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。来た道を戻る感覚。エルゲ村のマティアス。「積み重ね」という言葉。フォルクへの報告書。
『今日、レイに「お前も変わったか」と聞かれた。「わからない」と答えたが——「気配や温度が変わった」とは書けた。それは、変わったということだと思う』
『ノエルが「報告書を読んでみたい」と言った。今までの報告書には、ノエルの全てが書かれている。良いことも、課題も。学院に着いたら、それをノエルに見せられるかどうか——わからない。でも、見せたい、と思う。それは、ノエルの記録だから』
『初雪の日に訪れていたあの場所を、ノエルが「覚えてますか」と聞いた。覚えている。あの日から、ずっと一緒に歩いてきた。来た道を戻るというのは、その全部を、もう一度確認するような旅なのかもしれない』
ペンを置いた。
窓の外、エルゲ村の方向に、灯りが見えた。マティアスの家の灯りかもしれない、と思った。
学院まで、十九日。
* * *
「通るだけでも、会えます」
―― ノエル・ブライトガーデン、街道にて




