第48話 手紙が届く日
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
その村は、これまで通った村より少し大きかった。
街道沿いに宿が二つあり、市場もあった。春の市が始まったところらしく、露店に野菜や花が並んでいた。
ノエルが市場を見て、目を輝かせた。
「見ていってもいいですか」
『ゆっくり見てください』
ノエルが露店を見て歩く間、アルドは少し後ろを歩いた。レイは市場の屋根の上を飛んでいた。
ノエルが、花を売る店の前で止まった。
「これ、雪解け花じゃないですね」
「違う花だ」とレイが言った。「もう少し遅く咲く花だ。市場で売るために育てられている」
「育てられている花、初めて見ました」
ノエルは、しばらくその花を見ていた。
* * *
市場を抜けたところで、宿に向かった。
宿の入り口に、一人の男が立っていた。
旅装ではなく、きちんとした格好だった。郵便配達の制服に近かった。手に、革の筒を持っていた。
「失礼ですが、詠唱士のノエル・ブライトガーデン様、で間違いないでしょうか」
ノエルが少し驚いた顔をした。
「……はい、そうです」
「学院からの書簡をお預かりしております」
革の筒を、両手で差し出した。
ノエルは、それを受け取った。手の中で、少し重そうに見えた。
* * *
宿の部屋に入ってから、ノエルは筒をしばらく見ていた。
すぐには開けなかった。
アルドもレイも、何も言わなかった。
しばらくして、ノエルが言った。
「……開けます」
筒の蓋を開けた。中から、丁寧に丸められた手紙が出てきた。学院の紋章が押された、正式な書簡だった。
ノエルが読んだ。
しばらく、何も言わなかった。
読み終わって、紙を膝に置いた。
「……グランド・アリアの、開催決定通知でした」
アルドはノートを開いた。
『開催が決定したんですね』
「はい。来期——夏の終わりに」
「夏の終わり」とレイが言った。「思ったより早いな」
「予定通りらしいです。何年かに一度の開催で、今年がその年だったみたいで」
ノエルは、もう一度書簡を読んだ。
「それと——」
言葉が、少し止まった。
「私の名前が、参加候補者として記載されています」
「候補者?」
『それは、どういう意味ですか』
「グランド・アリアは——五柱の神々への同時詠唱です。参加できるのは、限られた魔術師や詠唱士だけです。候補者として名前が挙がるのは、名誉なことだと聞いています」
ノエルは、それを言いながら、書簡をもう一度見た。
「私が、候補者……」
* * *
レイが言った。
「驚いていないようだな」
「驚いてます」とノエルが言った。「でも——どこかで、こうなる気がしてました」
「予感、というやつか」
「予感、というより……今までやってきたことの先に、これがあるんだろうな、というのは——なんとなく」
アルドは、その言葉を、しばらく見た。
予感していた、というノエルの言葉。アルドにも、似た予感があった。泉の詠唱での初めての減算。カレン村で聞こえてきた神霊界の声。モレナ村の神霊の境界。そして、街道脇の畑での体験「届くか、届かないか」——一つずつの出来事が、ここに繋がっていた気がした。
『ノエルなら、できると思います』
ノエルが顔を上げた。
「……ありがとうございます」
それから、少し笑った。
「でも、まだ『候補者』なので。確定じゃないです」
「確定の手続きは?」とレイが聞いた。
「学院に戻って、選抜の詠唱を受ける必要があります。それで、最終的に参加者が決まります」
「学院に戻るのか」
その言葉が、空気の中に少し残った。
* * *
夜、宿の食堂で、二人と一羽は静かに食事をした。
いつもと違う静かさだった。重い空気ではなかった。でも、何かが、変わり始めていた。
ノエルが、ふと言った。
「師匠」
『はい』
「学院に戻ったら……マルクさんに、会いますよね」
アルドは、少し止まった。
マルクの名前を、旅の途中で聞くのは初めてだった。ヴァルナで偶然会ったマルクから、副学院長との接触の話があって以来、名前は出ていなかった。
『会うと思います』
「マルクさんは、私のこと、どう思ってるんでしょうか」
『わかりません。でも——マルクは、ノエルの詠唱を、正当に評価する人です。それは、信じています』
「正当に、ですか」
『マルクは、好き嫌いで評価をしない人です。それが——マルクの、良いところでもあり、難しいところでもあります』
ノエルはそれを聞いて、少し考えた。
「会うのが、楽しみでもあり、ちょっと怖いです」
『それは、自然な気持ちだと思います』
* * *
食事が終わってから、ノエルが部屋に戻る前に、外に出た。
夜の市場は、もう静かだった。露店は閉まっていたが、いくつかの店に灯りが残っていた。
ノエルが、夜空を見上げた。
「師匠」
『はい』
「選抜の詠唱、不安です」
『正直に言うと——私も、少し不安です』
「師匠も、ですか」
『はい。でも——不安なのは、悪いことではないと思います』
「どういう意味ですか」
『不安があるのは、大切だと思っているから、です。大切でなければ、不安になりません』
ノエルは、それを聞いて、少し安心したように笑った。
「師匠、たまに、すごく的確なこと言いますね」
『たまに、ですか』
「いつも、ではないので」
アルドは、その返事に、書くことを少し迷った。
でも、書いた。
『失礼な気がします』
ノエルが、声を出して笑った。
夜の市場に、その声が、少し響いた。
* * *
翌朝、宿を出る前に、ノエルが振り返りノートを開いた。
いつもより、長く書いていた。
アルドは、その間、自分のノートを準備しながら、待った。
書き終わって、ノエルが顔を上げた。
「師匠、学院までは——どのくらいですか」
『今のペースなら……二十日ほどだと思います』
「二十日……」
「春の終わりには着くな」とレイが言った。
ノエルは、宿の外に出た。
春の朝の光が、街道に差していた。市場の準備をする人たちの声が聞こえた。
ノエルが、深く息を吸った。
「行きましょう」
それだけ告げた。
アルドとレイは、ノエルの少し後ろを歩いた。
* * *
アルドは夜、いつもの私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。市場。学院からの書簡。グランド・アリア開催決定。ノエルが候補者であること。学院への帰路、二十日。
『ついに、来たという感じだ。新しい流れが、ここから始まる。ノエルは「予感していた」と言った。私にも、同じ予感があった。泉の詠唱から今日までの一つずつが、ここに繋がっていた』
『ノエルが「マルクに会うのが楽しみでもあり、怖い」と言った。私も同じだ。マルクは、ノエルの詠唱を正当に評価する。それは——プレッシャーでもあり、救いでもある』
『「不安なのは、大切だと思っているから」——ノエルに言った言葉だが、自分にも言っている気がした。これから二十日、学院に向かう。その先に、グランド・アリアがある。残高がどうなるか、わからない。マルクが何を言うか、わからない。でも——わからないことが、悪いことではない、と今は思える』
ペンを置いた。
窓の外、夜の街道を、馬車が一台、ゆっくり通り過ぎていった。
学院へ。
春の終わりに向けて、旅の目的が変わる。
* * *
「不安があるのは、大切だと思っているから、です」
―― アルド、夜の市場にてう




