第47話 種を運ぶ
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
モレナ村を出て二日。
街道沿いの景色が変わってきた。雪解け花だけでなく、緑が少しずつ戻ってきていた。木々の枝先に、小さな芽が見えた。鳥の声も増えた。冬の間、静かだった街道が、少しずつ賑やかになっていた。
ノエルの荷物の中には、まだテオからもらった種袋があった。
時々、荷物を整理する時にそれを見て、「まだ持ってます」というように、アルドに見せることがあった。アルドはその度に、ノートを開かずに、ただ頷いた。
* * *
昼前、街道脇で老人が一人、畑の前で困っているのを見つけた。
畝が荒れていた。種をまく準備をしていたようだが、土が固く、うまく耕せていない。老人——名をジオといった——は、鍬を持ったまま、肩で息をしていた。
ノエルが近づいた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……すまない、年を取ると、土が固く感じる」
レイが畑を見て言った。
「土自体が固くなっている。冬の間、ここだけ霜が深く入ったようだ。精霊が眠ったまま、まだ起きていない」
『起こす詠唱を試してみますか』
「やります」とノエルが即答した。
* * *
ジオの畑は小さかった。村の依頼ではなく、個人の畑だった。立て札もなかった。ただ、困っている人がいた。
「お礼は、何もできないが……」
「大丈夫です」とノエルが言った。「お礼のためにやるわけじゃないので」
ジオが少し驚いた顔をした。
「詠唱士さんって、お金を取るものだと思っていたが」
『依頼によります』とアルドは書いた。『今日は、依頼ではないので』
「依頼ではない、というのは」
『ただ、困っている人がいたので』
ジオはそれを読んで、何も言わなかった。畑の前に立つアルドとノエルを、しばらく見ていた。
* * *
ノエルが畑の前に立った。
ノートを開かなかった。
「今日は、短くします」
第Ⅰ節だけだった。
土への呼びかけ。眠っている土への、優しい呼びかけ。起こすのではなく——「もう春ですよ」と伝えるような、静かな節だった。
周囲の気配がゆっくり温かくなった。
次いで頭の奥で、声が届いた。
『……ああ』
『もう、春か』
『そうか、そうか』
『よく寝た』
その声は、ゆっくりだった。寝起きの声、というのが一番近かった。
土が、少し動いた。
目に見える変化ではなかった。でも、ジオが「お……」と声を出した。
「鍬が、軽くなった気がする」
試しに鍬を入れると、確かに、土が割れた。固かった土が、ほろほろと崩れた。
「これは——」
「土が目覚めましたね」とノエルが言った。
* * *
ジオが鍬を持ち直して、畝を耕し始めた。
ノエルとアルドは、しばらくそれを見ていた。
ジオの動きが、最初より軽くなっていた。土が応えていた。
しばらくして、ノエルがふと言った。
「師匠、種袋……」
アルドはノエルを見た。
ノエルは、荷物から種袋を取り出していた。
「ジオさん」
ジオが振り返った。
「これ、よかったら使ってください。前の村の方からいただいた種です。今年、まだ育つ、と言ってました」
ジオは種袋を受け取って、しばらく見ていた。
「……いいのかい」
「私が持っていても、持って歩くだけなので。育てる機会がないんです」
ジオが種袋を開けて、中を見た。
「これは……いい種だ。質がいい」
「育つといいですね」
ジオが頷いた。
「育てたら、その時は——」
「見に来るかどうかは、わからないです」とノエルが先に言った。「でも、育つことを、ちゃんと想像しておきます」
ジオは少し笑った。
「それで、十分だ」
* * *
畑を後にして、街道に戻った。
アルドはノートを開いた。
『種袋、渡してよかったんですね』
「ここが、ちょうどいい気がして」
『良い判断だと思います』
「種を運ぶ詠唱士、でしたよね」
『そうです』
「運んだ先で、使ってもらえました」
ノエルは、それだけ言って、前を向いた。
レイが頭上で言った。
「種は、もう一つ運ばれた」
「もう一つ、ですか」
「土から、土へ。村から、村へ。種が運ばれる時、それを運んだ手のことを、土は覚えている」
ノエルは、それを聞いて、少し空を見た。
「土も、覚えるんですか」
「土も、水も、風も、みんな覚える」とレイが言った。「人間より、ずっと長く覚える」
* * *
午後、別の村で小さな依頼を受けた。
村はファルといった。村の広場にある古い井戸の水が、最近少し苦いという相談だった。
井戸を見ると、底に古いコインが何枚か沈んでいた。
「願掛けの名残だろう」とレイが言った。「昔から、井戸に小銭を投げる習慣がある場所がある。コインが増えすぎると、水の精霊が——気にする」
「気にするとどうなるんですか?」
「コインの金属の味が、水に移ることがある。実害はないが、精霊が落ち着かない」
『コインを取り出しますか』
「やってみます」
* * *
井戸の底からコインを拾い上げるのは、難しかった。
アルドが綱を使って、井戸の壁を伝って降りた。コインを一枚一枚拾って、上に引き上げた。総じて十数枚あった。
ノエルが上で受け取りながら、コインを見た。
「古いですね、これ」
古い硬貨だった。今は使われていない貨物だった。
コインを取り出し終えると、ノエルが詠唱を始めた。
第Ⅰ節だけだった。井戸の水への、感謝の言葉だった。長く村を支えてきたことへの——簡潔な讃美。
詠唱を受けて気配が、軽く温かくなった。
それに合わせて頭の奥に、短い声が届いた。
『……ありがとうな』
それだけ、ひと言だけだった。
短い声だったが、アルドはその短さに、何か深いものを感じた。長い言葉より、短い言葉の方が、重い時がある。
* * *
井戸の水を確かめると、苦味が消えていた。
村の人たちが集まってきて、水を飲んで、「本当だ」と喜んだ。
古いコインは、村長に渡された。「博物館に寄付するか、何かの記念にするといい」とレイが言った。
ノエルが村を出る時、子どもたちが手を振った。
ノエルも手を振り返した。
* * *
夕方、宿に向かう道で、ノエルが言った。
「師匠、今日は二つでしたね」
『二つ、ですか?』
「ジオさんの畑と、ファルの井戸。両方、依頼じゃなかったり、小さかったりしましたけど」
『そうですね』
「でも、両方——なんか、よかったです」
『私もそう思います』
「大きい依頼も、小さい依頼も、なんか……同じくらい大事な気がします」
アルドは、その言葉を、しばらく見た。
『それは、正しい感覚だと思います』
「正しい、ですか」
『精霊にとって——大きさは、関係ないと思います。届くか、届かないか、です』
ノエルが頷いた。
「届く、か」
* * *
夜、アルドは日課の私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。雪解け花の街道。ジオの畑。種袋。ファルの井戸。古いコイン。
『今日、種袋がジオさんの畑に渡った。ノエルが「育つことを、ちゃんと想像しておきます」と言った。見に来るかどうかはわからない、と。それでも、想像する——その姿勢が、ノエルらしいと思った』
『井戸の精霊の『ありがとうな』という短い声。今までで一番短い声だった。でも、一番、まっすぐだった気がする。神々の言葉は、長さでは測れない』
『今日は、依頼も、依頼でないことも、両方あった。ノエルは「同じくらい大事」と言った。それは、ノエルの詠唱が、すでに「依頼を達成するため」のものではなくなっている、ということかもしれない。届けるため。それだけだ』
ペンを置いた。
窓の外で、夜風が吹いていた。春の風だった。
* * *
「届くか、届かないか、です」
―― アルド、街道にて




