第46話 春が来た
『テノアの残高:約六十三年と一ヶ月』
その日、街道の脇に花が咲いていた。
白い小さな花だった。一つではなく、ぽつぽつと、道沿いに散らばって咲いていた。雪解けの土から、何の前触れもなく出てきたように見えた。
ノエルが最初に見つけた。
「花が咲いてますよ」
立ち止まってしゃがみ、花を見た。アルドも近づいた。
レイが上から言った。
「春一番の花だ。毎年、この時期に咲く」
「名前、ありますか」
「ある。が、土地によって呼び方が違う。この辺りでは『雪解け花』と呼ぶ」
「雪解け花」
ノエルが繰り返した。それから、指で花びらに触れた。柔らかかった。
しばらく、誰も動かなかった。
* * *
その日から、依頼が増えた。
冬の間、止まっていたものが、一気に動き出すようだった。畑の準備、水路の確認、家の修繕——春は始まりの季節で、始まりには精霊への挨拶が必要なことが多かった。
最初の依頼は、半日歩いた先の村だった。
村はモレナといった。畑が広がる村で、村長のテオが出迎えた。
「種まきの前に、土と水、両方の精霊に挨拶をしたい」
「両方、ですか?」とノエルが聞いた。
「うちの村は、土と水の境界に畑がある。両方に挨拶しないと、片方が拗ねるんだ」
レイが言った。
「珍しいが、悪くない習慣だ」
* * *
畑の端に立った。
土と、その向こうの小さな水路。両方が見えた。
ノエルが少し考えてから、ノートを開いた。
「今日は、二つの精霊に向けて詠唱します。順番、どうしましょう?」
ノエルは迷っていた。それにレイが答えた。
「順番をつけると、片方が先になる。同時に呼びかけられるか」
「同時に……できるんですか?」
同時というアドバイスに方法がすぐには思いつかなかった。
アルドはノートを開いた。
『術式にはない構成です。でも——できないとは、書いてありません』
「やってみます」
* * *
第Ⅰ節。
ノエルが、左右に視線を配るように、詠唱した。
土への呼びかけと、水への呼びかけを、交互に。一節の中で、二つの方向に言葉を投げるような構成だった。
精霊たちの気配が、複雑に揺れた。
二つの精霊が、同時に反応した。
すると頭の奥の方に、あの声が届いた。
『……お、両方か』
『久しいのお』
『どちらが先か、で揉めると思ったが』
『揉めなかったのお』
『同時に来た』
『面白い子じゃ』
アルドは、その声を聞きながら、ノエルの言の葉で変わる気配に驚いていた。
二つの異なる気配からくる温度が、同時に流れてきていた。土の温度と、水の温度。混ざらず、でも、争わず。それぞれが、それぞれの場所にいた。
* * *
続けて第Ⅱ節。第Ⅲ節。
ノエルの詠唱は、丁寧に二つの精霊の間を往復していた。土への讃美、水への讃美。畑がどのように両方の恵みを受けてきたか。
第Ⅳ節で、即興を入れた。
今日の即興は、土と水の対話のような詩だった。土が水を受け入れ、水が土に沁み込み、互いに何かを分け合う——という詩だった。
頭の奥に届く声が、静かになった。
『……これは』
『土と水の、両方への詩じゃ』
『片方だけでなく』
『両方を、見ている』
『見ている、か』
『うん。見ている』
最後の声が、少し震えていた気がした。アルドは、それが何の感情かわからなかったが、悪いものではないとわかった。
* * *
第Ⅴ節。第Ⅵ節。
第Ⅵ節の讃美が、長くなった。
土と水、両方への讃美だった。それぞれの良さを、別々に語るのではなく——重なる場所への讃美だった。境界という場所そのものへの言葉。
周囲の気配が、より濃く、温かくなった。
いつもの温かさとは違った。二つの温度が、ゆっくり混ざっていくような感触だった。
『……境界、か』
『境界を、讃えたのお』
『境界は、いつも片方の側からしか見られない』
『今日は、両方から見られた』
『初めて、かもしれぬ』
* * *
第七節。
「——セレス様の慈雨に代わりて、我、ノエル・ブライトガーデンが命ず」
噛まなかった。
土と水、両方が同時に応えた。
畑の土が、少し色を変えた。湿り気が増したわけではなかった。でも、土が——準備ができた、という感触だった。水路の水が、少し澄んだ。
* * *
ノエルが振り返った。
顔が、明るかった。疲れているはずなのに、明るかった。
「……両方、応えてくれました」
「初めての構成だったな」とレイが言った。
「同時に呼びかけるの、難しかったですけど——なんか、自然な感じもしました」
『自然な感じ、ですか?』
「土と水って、もともと近いので。分けて呼びかける方が、不自然な気がして」
アルドは、その言葉をしばらく噛みしめた。
術式にはなかった構成。でも、ノエルにとっては、自然なことだった。
『今日の詠唱は、新しい形でした。これは——記録しておく価値があります』
「記録、ですか?」
『次の詠唱士のために。誰かが、同じような状況に出会った時に』
ノエルが少し驚いた顔をした。
「私の詠唱が、後のための記録になるんですか?」
『すでに、なっています。最初の話から』
ノエルはそれを聞いて、何も言わなかった。
ただ、少し目を細めて、畑を見ていた。
* * *
テオが、お礼に種を一袋くれた。
「これは、うちの畑で取れた種だ。今年もまた育つ」
「ありがとうございます」
受け取った種袋を、ノエルがしばらく見ていた。
「師匠、これ……持って歩くんですか」
『育てる場所がないので、難しいですが——次にどこかで、土に詳しい人がいたら、渡せるかもしれません』
「種を運ぶ詠唱士、ですね」
『悪くない響きです』
ノエルが笑った。
* * *
帰り道、雪解け花がさらに増えていた。
最初の一輪を見つけた時より、街道全体が白く点々としていた。
ノエルが歩きながら、花を一つ摘んだ。
歩きながら、それを見ていた。
「師匠」
アルドが頷く。
「この花、押し花にしたら、どのくらい持ちますか」
『保存方法によりますが——丁寧にすれば、何年も』
「何年も」
ノエルは、その花を、振り返りノートの間に挟んだ。
何も言わなかった。
アルドも、何も書かなかった。
花が、ノートの中に入った。それだけのことだった。でも、それだけではない気がした。
* * *
夕方、宿に着いた。
ノエルが部屋に入る前に、外で立ち止まって、もう一度空を見た。
「師匠」
『なんですか』
「今日、すごく良い日でした」
『私もそう思います』
「来年も、雪解け花、見れますか」
アルドは、少し考えた。
『見れます。毎年、咲くので』
「来年も、一緒に見たいです」
その言葉に、アルドは少し止まった。
来年。
来年の今頃、まだ旅をしているかどうかは、わからない。グランド・アリアがどうなるか、ノエルがどこにいるか——何もわからない。
でも。
【はい】
それだけ書いた。
ノエルが嬉しそうに笑って、宿に入った。
* * *
夜、アルドは私的ノートを開いた。
今日の出来事を記した。雪解け花。モレナ村の畑。土と水、両方への詠唱。種袋。
『今日、ノエルが初めて「二つの精霊に同時に呼びかける」詠唱をした。術式にない構成だった。でも、ノエルにとっては自然だった。私は「記録しておく価値がある」と書いた。それは本当だ。でも——記録するのは、私だけではない。神々も、覚えていた。『境界は、いつも片方の側からしか見られない。今日は、両方から見られた』。その声が、今も頭の奥に残っている』
『「来年も一緒に見たい」とノエルが言った。私は「はい」とだけ書いた。来年のことは、誰にもわからない。でも——わからないからこそ、「はい」と書いた。それが、今の私にできる、唯一の約束だった』
ペンを置いた。
振り返りノートの間に、雪解け花が挟まっているのが見えた。
春が来た、とアルドは思った。
今年の春は、去年とは違う春だ。
* * *
「境界は、いつも片方の側からしか見られない。
今日は、両方から見られた」
―― 神霊界の声、モレナ村の畑にて




